半村 良 となりの宇宙人 目 次  ボール  ビ ー  超古代の眼  罪なき男  妙穴寺  泪稲荷界隈  めぬけのからしじょうゆあえ  幻影の階層  悪魔の救済  となりの宇宙人 [#改ページ]   ボール  ダイニングキッチンの白いデコラ貼《ば》りのテーブルの上に、皿《さら》や椀《わん》や箸《はし》が乱雑に並んでいる。居間のほうでは登校する子供達の世話を焼く妻の声が絶え間なくつづいている。  青い格子縞《こうしじま》のパジャマの胸をだらしなくはだけた斉田《さいだ》は、自分の椅子《いす》——左側に冷蔵庫があって頭のうしろに北海道の木彫りの熊《くま》や秋田のこけし人形などをちまちまと飾った、申し訳け程度の吊《つ》り棚《だな》がある——に坐《すわ》って味噌汁《みそしる》の椀に手を伸した。左手と視線は新聞から放さず、汁をすする時も上眼遣《うわめづか》いで活字を拾いつづける。  その社会面の記事に、それ程興味がある訳ではない。朝の儀式のようなものだ。儀式は今朝、特に念入りにとり行なわれている。二日酔いなので落ちつかないからだ。苛々《いらいら》している。然《しか》し長年にわたる二日酔い経験で、この苛々はどこへもぶつけられないのを承知しているのだ。子供達を学校に送り出すような時の妻の声は、いつだって斉田のカンに触《さ》わる。特に二日酔いの朝は堪《た》え難い程だ。だから新聞を読む。ガサガサと音をたてるそのうすっぺらな何ページかの間へ自分の首から上を埋《う》めこむことができたら、どんなに楽しいだろうと、くだらない事を考えている。眼は正確に活字を追っているが、意味は半分も読み取っていない。全部きのうの続きのようで、少しも新鮮でない。  小さな爆発事故。アパート一棟が全焼、死者六名、老女が一歳の子を抱きしめて死んでいた。プロパンガスのボンベが……またか。  交通事故。東名で六重追突……よくこんなものが記事になるのだと、ぼんやりした頭で考える。  都電にバスが追突。将棋倒しの乗客……このほうが面白い。会社へ行って笑い話のタネができた。いや、必ず朝の話題にのぼるだろう。誰《だれ》も言いそうもないことを考えなけりゃ……そうだこれがいい。 (そりゃきみ、都電の運ちゃんに責任があるよ。うまくよけないからいけないんだ。未熟運転だな)  斉田はそれを考えオチだと思った。昨夜一緒に呑《の》んだ部下達が、きっと大笑いをしてくれるだろう。そう考えると、やっと出社する意欲が湧《わ》いて来た。 「自動車に気をつけるのよ」  妻の最後のひと声が玄関でしていた。次はこっちの番だな……斉田は母親の叱責《しつせき》に怯《おび》える子供のような心理で、急いで残りの味噌汁をすすった。椀の底にネギの白いのが五切ればかり残っていた。 「あら、おつゆだけ」  髪をきりりと後頭部に束ねた、清潔な卵のような妻の顔が斉田に向けられていた。 「水をいっぱいくれ」 「お茶いれるわよ」 「水でいい」 「二日酔いね。良い加減にしたら、若い人達と遊んで歩くの。上の人や仕事のおつきあいじゃ仕方ないけど、払うのあんたでしょ」  言い方に険《けん》がある。三本ばかり棘《とげ》が生えて斉田の胃の辺《あた》りを引っ掻《か》く。一本は昨夜また遅かったこと。一本は絶えずそうした遅い帰宅があること。残りの一本はいちばんとんがっていて、わが家の経済のこと。  斉田は黙って狭くるしいダイニングキッチンを出る。背後で仕切りの玉のれんが二度音をたて、妻がついて来ることを報《し》らせる。  洋服だんすの前でパジャマを脱ぎすて、靴下《くつした》をはきランニングシャツをかぶる。ワイシャツに袖《そで》を通しボタンをかけ、ズボンをはく。新聞を読んでいた時と同じ理由で、斉田はそれを熱心にやる。着換えの最後は、妻からゆうべの残りのハイライトの箱と安物のガスライターと白いハンカチーフを受け取ることだ。ガスライターには、時々遠くへ抛《ほう》り投げてしまいたくなるような鮮明さで、赤く石油会社の社名が刷《す》り込んである。刻み込んであるのかも知れない。三十八歳。小学校一年と三年の子を持つサラリーマンとしては、刷り込んであろうが刻み込んであろうが、消しとる気力などないのだからどっちでもいい。気になるのは酒場で女達にかこまれて、然もまだ素面《しらふ》の状態でいるほんの短い間のことだ。  靴をはく。ちゃんと磨《みが》いてある。女房としては最高の出来だと自負している。どこへ出しても恥かしくない。飾ればちょっとしたホステスよりはるかに上で、子供を二人産んだ肢体ではない。近頃めっきり好色になった点も成績優秀だ。だが本人はそのどのファクターにも気づいていない。日常のごたごたした段取りに夢中で、それ以外の天地がこの世にあるのを認める風もない。……それが斉田の心を妻から遠のける唯一の理由だ。重荷になる、済まないと思う、甲斐性《かいしよう》のない奴と自分を責める。女房の奴が責めさせるのだと、勝手は承知で帰宅の足が重い。金を稼《かせ》ぐことが、生きて行くむずかしさが、妻の存在で代表されている。女と女房は別物……斉田は招かれた結婚披露宴で必ずそうスピーチする。結婚披露宴のスピーチなんて、どんなに毒づいたってご当人達は上の空でたいてい善意に聞き流してしまう。年輩の客、それも男の客にスピーチがウケればそれでいい。女と女房は別物……実力のある年輩者ほどうなずいて笑ってくれる。 「気をつけてよ、車に」  別物が言った。反射的に「ウン」と言ってしまってから、斉田はおやっと思った。子供達に言うのと文法が違っているだけだ。俺《おれ》も毎日あれで送り出されてたのかな、と考えてみたが、きのうのことすら思い出せない。  交通事故、交通事故……交通事故ばかり心配してやがる。そう思うと斉田はなんとなく腹が立った。その瞬間も狭い道を威張ってマイカー族が行く。座席が四人分あって、そこに一人で坐って会社まで行く奴らだ。斉田は道の左端を、田圃《たんぼ》の畔《あぜ》を行くお百姓のように慣れたフットワークで駅へ向っている。地下鉄が都心まで乗り入れてくれたから約五十五分の通勤時間、年に一度か二度座席にありつくだけの斉田は、比較すれば王様と乞食《こじき》みたいなその身分の違いを考えようとしたことなど一度もない。それでなくても苛立たしいことが多すぎるのに、車を持つ者持たぬ者の違いまでいちいち考えていたらやり切れたもんじゃない。  でも妻が交通事故の心配を本気でしているらしいのはやり切れない。安心していてもらいたいのだ。そんなものといちばんかかわり合いのないのが自分だと、そう思っている。  まず第一に車を持っていない。第二に免許証を持っていない。第三に免許を取る時間のゆとりもない。第四に車を買う金がない。第五にその金を持つ可能性もない。第六にあまりタクシーに乗らない。第七にほとんど会社にいる。第八にいつも車に気をつけている。第九に……いくらでもある反証を考え続けている内に駅へついた。乗った電車がひっくり返りでもしない限り、俺は交通事故なんかと縁がない……電車に押し込まれて体を弓なりにそり返したまま揺られながら、斉田はまだそんなことを考えていた。自信満々というのではなく、車とまるで無縁な自分をうらめしく思うような気分で……。 「そりゃね、都電の運ちゃんがいけないよ」  斉田がそう言うと、朝のひととき、雑談に花を咲かせていた資材課の若手社員は、おやという眼つきで鹿爪《しかつめ》らしい課長の顔をみた。 「うまくよけないからいけないんだ」  とたんに爆笑が起った。 「ちげえねえや」  不謹慎な発言が笑いの中からとび出していた。斉田はいかにもボスらしい、底意のあるニタリとした笑い方を気取って連中の顔を見た。やはりウケた。なんとなく良い日になりそうな予感があった。 「冴《さ》えてますね、今朝は」 「今朝は、ってことはないだろう」  斉田はわざと腹立たしげに言う。 「あ、すいません課長」  また軽い笑い。 「やっぱりあれだよ、宇宙人だよ、宇宙人」  昨夜最初から最後まで副部長の蔭口《かげぐち》を言い続けてたのが言った。 「なんだい宇宙人って」  斉田が訊《たず》ねる。 「のり移るんだそうですよ、宇宙人が。そうすると冴えちゃうんです。なあオイ」  今年入社したばかりのが、古株にそう言われて照れ臭そうに頭を掻いた。 「嘘《うそ》ですよ」 「きまってら、馬鹿」  また大笑い。だが斉田には意味が判らなかった。 「なんだ、それは」 「新聞に出てるでしょう、例の天文台の発表が」 「そうだったかな」 「これですよ」  新入社員が朝日と毎日と読売をごっそり斉田のデスクに置いた。どれにも大同小異の記事がのっている。 「きのうの午後から世界中の天文台で地球の大気圏へとび込んで来る物体を、いくつも観測してるんです。彼はそれが宇宙人の乗った円盤に間違いないって言うんですよ。宇宙人は霊魂みたいに肉体がなくって、僕らの体に乗り移るんだって……」 「違いますよ。そういう宇宙人さえ考えられるって言うだけなんです」 「まさかねえ」  斉田は新聞をひっくり返しながら真面目《まじめ》な顔で言った。「ほほう、積水《せきすい》がまたアガったな……」  斉田は経済欄を見てそうつぶやいて見せた。朝の雑談はこの程度にしめくくりをつけて、課員達を仕事に戻らせるテクニックのひとつだ。……時にはいっしょに呑《の》む。毎朝仕事のはじまりにお互いのコミュニケーションをよくして置いてやる。次にピリリとした課の空気を作り出す。良き課長とはそうしたテクニックに長じていなければならない。そう思っている。……実の所、それは余り器用に行っていないし、自分の代になって多少課の空気がだらけているのは自覚しているのだが、ギリギリ絞りあげるのは、下積みが長かった斉田としては抵抗がある。鬼軍曹はとてもじゃないが自分の役柄でないと、斉田は自らそう信じ込んでいるのだった。 「この不思議な物体は、アメリカの各地でかなり多数の人々に目撃され、道路などに多少の被害が出ているとのことですが、今のところくわしい情報は入っておりません。なお、ワシントンにいる鈴木特派員は、このニュースについて次のような米国国防省の公式発表を伝えてまいりました」  その日の午後七時。斉田はテレビの前で、心もち首を傾けて喋《しやべ》る癖《くせ》のあるニュースキャスターの顔を眺《なが》めていた。その顔がすうっと遠のき、背後にある四角い大きな枠《わく》の中に、特派員のスチール写真が映っていた。電話を通した半ば機械的な声がして来る。 「この物体は現在アメリカの各地に多少の被害をもたらしているが、合衆国国民及びその防衛施設に対して何らかの意図を持つ外国の計画的行為ではなく、偶然の宇宙的現象であると判断される。従って合衆国国民は外国よりの侵略その他と、この現象を関係づけるいかなる煽動《せんどう》にも動揺しない、冷静かつ良識ある行動を……」  斉田はハイライトに火をつけると、煙をモヤモヤと口の辺《あた》りに漂わせながら妻に言った。妻は子供達にリンゴをむいてやっている。 「ボールみたいなんだって……」  妻はナイフを動かしたまま、顔もあげずに熱のない声で答えた。 「なんでしょうねえ」 「パパ、宇宙人だろ、ねえ」  三年生の坊主がせがむように言った。 「さあ、どうかな」 「宇宙人だよオ、ねえ」  子供はぜひともそうあって欲しいと望んでいるのだ。一年生のほうも父親の顔を、期待に満ち満ちた瞳でみつめている。斉田は子供達を喜ばしてやることにした。四千三百円もするトミーの月面車をねだられるより余っ程安あがりだと思ったからだ。二週間前に買ってやると約束したのを思い出させないように注意しながら言った。 「そりゃそうさ。宇宙人にきまってるよ」 「ほらみろ宇宙人だ」  二人の男の子は揃《そろ》って手を叩いた。兄弟仲がとてもよさそうに見える。そしてこれ程発言に権威を持っている自分を、別人のようによき父であると感じた。 「よかったわね」  妻まで喜んでいる。斉田は久しぶりに家庭のよさを味わった。 「新聞に出てたろ、今朝の……ほら、世界中の天文台が見た、地球へ向ってやって来る宇宙船のこと」 「あら、ほんと」  リンゴをむき終えた妻が眼を丸くして斉田の顔をみた。眼つきにまだあどけなさが残っている……そう感じた時、胃の下の辺りにむずむずとした衝動が走った。(今夜はひとつ思い切り丁寧に扱ってやるかな) 「そう……やっぱり宇宙船なんだね」  長男が言い、一年坊主の肩をトンと突いて威張った。「みろ、やっぱり宇宙船じゃないか。おとなだってそう言ってるんだぞ」  斉田の妻に対する性欲の一部分が、ぺしゃっと音をたてて萎《な》えた。伜達《せがれたち》は父親と喋ってはいず、オトナと会話していたのだ。ただのオトナ……と。(今の子供はなんでこうブクブク肥るんだろう。食い物のせいかな)  斉田は自分の長男を眺めながらそう考えた。オヤジの自尊心を傷つけられはしなかった。日頃《ひごろ》の訓練で咄嗟《とつさ》に意識を方向転換できたからだ。  斉田が豊かな家長気分を楽しんでいるころ、〈多少の被害〉が進行していた。〈多少の被害〉は多すぎてどこから手をつけていいか判りかねた。  早い話が、アメリカ西海岸のいちばんカナダ側の端にある、オリンピック国立公園の緑の中から転り出た一団の茶色い玉っころは、海岸沿いに南下する長大なU・Sハイウェイ101を、アストリア、ニューポートとすっとばし、クレセントシティにさしかかっていた。小さいので直径約二メートル、でかいのは三メートルもある褐色《かつしよく》のボールは風を切る以外に何の音もなく、ひたすら回転をつづけ、そのスピードは時に時速五十〜七十キロ、時に百四十キロから二百キロ近くで一群となり、互いに追いつ追われつの形で突っ走っている。U・Sハイウェイ199との合流点でボールの群れは二手に分れ、一部はそのまま南下を続けてサンフランシスコへ向い、一部はグランツ・パスからローズバーグをへてポートランドへ逆流した。  逆流した連中はやがて再度オリンピック国立公園へ舞い戻りルート101とルート99を利用して、際限のない堂々めぐりをはじめることになる。南下した連中はサンフランシスコを通り抜けると海岸線から引っ込んでオークランドからフレスノ、ベーガースフィールドを経由してアリゾナへ入り、アルバカーキ、オクラホマと、ルート66を一目散に東海岸へ向いはじめる。  また、たとえばサウスダコタのラピッドシティ近くの山の中から転り出したボールの大群は少しの間東へ向い、ミズリーの流れの手前から方向を九十度転じてルート183を一気に南下しはじめた。まるでそいつらは道路標識が読めるようにネブラスカからカンサスを横切ることになる。  そんな事態のごく初めのほうが、アメリカの各地で起っていた。ボール達は自分らの前方に車を見つけると急に速度をあげ、先きを争うようにして追突して行った。何で出来ているのか知らないが、自動車は粉々にふっとび、ボールはびくともせずに走りまくる。ニュースを知らずに来る対向車は、中央分離帯がしっかりしていない所では、まるで意地悪ダンプのやり方そっくりな突然の対向車線侵入でボールに正面衝突をされ、プラモデルのように砕け散った。しかも、ボールが車を粉砕するたびに、虚空にその車が破壊される以前の姿が、巨大な立体感を伴うカラー映像で瞬間的に浮びあがる。  ボールの通過する沿道の人々は、この超自然現象的映像を、夜でも昼でも眺めることができた。それは美しく、まるで花火のような眺めだった。  斉田は六階の資材課の部屋を出ると、プラスタイルの廊下を少し行ってエレベーターに乗り、地階にある喫茶店ユトリロへ入った。  ユトリロはまるで満員電車のように収拾のつかない混雑だった。みんな三時のテレビニュースに見入っている。水やコーヒーを出すどころの騒ぎではない。ぎっしりとサラリーマンがつまっていて、ひと昔前の映画館のように、前に重なる頭と頭のすき間から、画面の一部をちらっ、ちらっと覗《のぞ》いている。 「みなさんお仕事中なんでしょ。お飲物もこれじゃお届けできないじゃありませんか」  ヒステリックな黄色い声がする。きっとユトリロの経営者なんだろう。その様子を見て、斉田はテレビニュースを諦《あきら》めた。ついでに自分の部下達を呼び戻すのも……。果してユトリロの中にいるのかどうかも判らない。斉田は急に充実感を覚えて、セカセカとエレベーターで自分のオフィスへ戻った。  どの課の部屋もガランとしていた。部長や常務クラスだって、どこかでテレビにかじりついているにきまっている。ひとけのない部屋で、斉田はワクワクするような充実感をたのしんでいた。熱心に、まるで別人のようにテキパキと仕事をかたづけはじめる。  大雪で電車が停まりそうな時に馴染《なじ》みのバーへ行くのと同じ心境だ。女子供が家の中で吹き荒れる暴風雨に怯えているとき、懐中電燈を持ち長靴レインコートに身をかためて、用もないのに暗い家のまわりを歩く充実感と同じだ。つまりこの瞬間、彼は正義の味方。VIP。ハードなタフガイ。男の中の男一匹……。しかも、いま起っている災害からまぬかれるという安心感がしっかりと支えてくれている。(アメリカ、ヨーロッパ、オーストラリア……とに角外国の出来事だ。俺や俺の家には関係ない。なぜあいつら、あんな風に仕事そっちのけで騒ぐんだろう。軽々しいったらありゃしない。あとでまとめて見たり読んだりすりゃ同じことなのに)  斉田はいつもその主義だった。アポロ11号のときだって、わざとのようにテレビに関心を向けなかった。あとでまとめて見せてくれたし、徹夜でコンピューターのピコピコ動く点々を見せられた奴の愚痴を聞くと、そら見ろと自分を誇らしく思ったりした。 「あっ、いたんですか課長」  新入社員はびっくりしたようにドアの所で言った。 「いたんですかじゃないよ。みんなはどこへ行った」  斉田は怒鳴りつけた。 「あの、屋上へ行きました」 「屋上……」 「たいへんですよ。こっちへも来たんです」 「何がだ」 「ボールです。ボールが日本へも来たんですよ」  斉田は一瞬ドキリとした。しかしすぐそれはごく当然の成り行きだと思った。 「きまってるさ。日本だけには来ないと信じていたのか。見通しの甘い奴だ」  新入社員はそう叱られて、ひどく尊敬した眼つきで斉田を眺めた。 「は、ええ……」 「仕事をしろ」  新入社員は「ハイ」と答えデスクに元気なく戻った。が、抽斗《ひきだし》をあっちこっちいじくりまわすだけで碌々《ろくろく》仕事に手がつかない。斉田は上眼遣いでそれを見ていたが、馬鹿馬鹿しくなって来た。こんな奴を相手に良い所を演技して見せたって何もならない。 「どこへ出たって……」 「屋上です。呼んで来ますか」 「放っておけ。いや違う、ボールのことだ」  途端に新入社員は元気をとり戻した。 「よく判んないんですけど、東名《とうめい》をこっちへやって来るそうです。途中の車がガンガンやられてます」 「来たかァ……」  溜《た》め息まじりにそう言うと、ゆっくりハイライトに手をのばした。 「どの辺を走ってるんだろう」 「さっきのテレビじゃ、足柄《あしがら》の辺だとか」 「すぐ来るな」  斉田はそう言ったが、自分でも表情に子供っぽい期待が浮ぶのを感じた。相手が相手だから隠す必要もない。 「東名高速から出て来るとするとだな……」  斉田は深々とけむりを吸い込み、やや考えてから続けた。「俺がボールだとして、行く道はひとつ、ふたあつ、みっつ、よっつ……か。瀬田《せた》から国道246で厚木《あつぎ》、御殿場《ごてんば》……」 「駄目ですよ。元へ戻っちやう」 「馬鹿、可能性の問題だ。もうひとつは玉川通りから環状7号」 「右折ですか左折ですか」 「まず右折しよう。大森《おおもり》海岸で突き当って国道1号」 「左折しましょう」 「高円寺《こうえんじ》、板橋《いたばし》、大和《やまと》町で国道17号を北へ向うのも面白い」 「浦和《うらわ》から大宮《おおみや》ですね」 「熊谷《くまがや》、本庄《ほんじよう》、高崎《たかさき》……君ならどっちへ行くかね」 「小諸《こもろ》のほう」 「そうか、君は長野県出身だな」 「ハイ。市内です」 「長野を抜けて直江津《なおえつ》か。家内のさとは富山県さ。高崎から新潟へ向うのもいいよ」 「沼田《ぬまた》、湯沢《ゆざわ》、六日《むいか》町、小千谷《おぢや》……いいところですよ、あの辺りは」 「玉川通りをまっすぐ渋谷《しぶや》へ行くのが一番面白いぞ」 「あッ、それがいいですよ、絶対」 「みんなニュースを見て屋上へあがったのもそれだろうな。首都高速へ入るのが一番のみものさ」  斉田は愉《たの》しんでいた。  ボールは東名高速を三波にわかれてやって来た。転り出たのは諸外国の例にもれず山の中……御殿場インターチェンジの近くからだった。足柄を通過する時はじめて報道機関にそのニュースが伝わり、一般に発表されたのだが、ジャーナリズムも当局も明らかに立ち遅れていた。意外な早さで東名高速の終点を出たボールは出来かけの環状8号線で瀬田へ向い、半分は左折して玉川通りを高速道路で渋谷へ向った。上馬《かみうま》で交差する環状7号線には目もくれず、邪魔になる車をまるで面白半分のように勝手|気儘《きまま》に粉砕し、虚空《こくう》に立体の虚像をエレクトリック・サーカスの効果照明のような具合に、パッパッ、ピカッピカッと派手に撒《ま》きちらしながら、予定してあったかの観さえある正確さで都心へ入った。  残りの半分は環状8号を直進して第三|京浜《けいひん》には目もくれず、玉川|奥沢《おくさわ》町から雪《ゆき》ケ谷《や》へ出て中原街道に入り、西|五反田《ごたんだ》でやはり首都高速にのっかった。  御殿場あたりでは一群になっていたというが、途中でスピードを調節し、前、中、後の三波に別れたらしく、先頭集団は約三百、中核部隊は約二千、後尾が七、八百といったところだった。  都内ではまるで何の備えもしていなかった。一応、ボール来襲の惧《おそ》れ……は当局から警告されていたが、車は相変らず走りまわり、道路は渋滞していた。だからボールが突然首都の車の列に突っ込んで来た、と言ってもいい。ドライバー達が迂闊《うかつ》なのかラジオのニュースが遅れたのか、平常通り走りまわっている車の流れにボールが紛れこんだのだから堪《たま》らない。その日の四時ごろから夜の八時ごろまで、都の上空は車の虚像がひっきりなしに輝き続けた。  ボール……約二千の疾走する褐色の球体は、渋谷と五反田から首都高速に入って料金所を破壊し、路上の車——ずっとあとになっても算出不能の台数だった——をブッとばし、沿道のビルや人々の頭の上へ金属粉をキラキラと輝く雪のように降らせた。  やがてボールは東京の中心部を環状にめぐる、首都高速の円の中に集合し、いつまでも飽《あ》きずにまわり続けた。ボールの最初の一周で、高速道路内の車は一掃された筈《はず》なのに、時々すっとぼけたドライバーがその死のサークルに乗り入れ、退屈したボールの餌食《えじき》になって粉雪を降らせた。ラジオのニュースは絶え間なく路上の危険を報じはじめ、料金所には乗入れ危険の緊急標示がなされたにもかかわらず、こうしたトンマなドライバーはあちこちで後を絶たず、日頃の無神経ぶりを死で証明した。  この言語に絶する古今|未曾有《みぞう》の宇宙的怪異現象の下で、つまり高速道路の下の一般道路では、同じように言語に絶する——後日よく考えて見ればのことだが——古今未曾有の地球的大愚行が続行していた。  首都高速をボールに占領され、交通渋滞が始まったのである。ハンドルにかじりついたドライバー達は、なんとかして目的地へ着くか、安全な駐車場に入れるかしようと必死だった。車を放棄しようなどと考えるのは、タクシーの運転手やトラック運転手などプロの、他人の車を無責任に取扱える連中だけだ。しかし、この非常事態に税金の手前なんとか役に立つ行動を起したがった当局は、学生専用の機動隊まで横流しして全都に厳重な駐停車規制をはじめた。車を放棄できなくなった。それどころかマイカー通勤者にまで都心からの退避を呼びかけたので、月賦が終っていない、�ワン、オ、オ、オー�や�野獣派��ジェントル派�などが先きを争ってイグニッションにキーを入れた。  車が郊外に逃げはじめたタイミングを充分に見はからって、都心をぐるぐるまわっていたボールの内、約百が突然|谷町《たにまち》から六本木《ろつぽんぎ》、西麻布《にしあざぶ》と逆流をはじめ渋谷と高樹町《たかぎちよう》から一般道路へ突入した。あとで都内を占領し駆けめぐった最初の部隊だ。車の虚像が宵闇《よいやみ》迫る東京の空を染め、ネオンサインに金属粉が七色に反射した。  また、江戸橋から直進して日光街道へ出て、悪名高い砂利トラの覇権《はけん》を奪い去ったボール群は、そのまんま東日本へ向う。西神田をへて護国寺《ごこくじ》へ出たボールは素早く春日《かすが》通りから川越街道をまっしぐら。無論斉田がのんびりと予測した国道17号中仙道へも分遣隊が出動。いちばん最後に戸越《とごし》—第二京浜組と鈴が森—第一京浜組がとび出して行った。  痩《や》せ我慢にせよ、我慢というものを余り続けたためしのない斉田は、屋上で首都中心部に加えられた最初のパンチを目撃していた。  まるで頭の上いっぱいに、極彩色の車地獄が描き出されていた。何百という車の虚像——それも実物の百倍もあるのが、パッ、パッと浮んでは消え、浮んでは消えしている。 「こらァ凄《すげ》えや」  斉田は子供のころ見た花火大会の昂奮《こうふん》をそのままに、感嘆の声をあげた。よく聞いていればその声の中に喜びの色が濃いのに気づく筈だが、誰も文句を言わなかった。  社内の七割が免許証を持ち、三割近くが車を持っている。斉田のように運転にも車そのものにも無縁だと、美しいその怪現象だけを楽しんでいられるが、車とかかわり合いを持っている連中は深刻だった。恐怖を味わっていた。 「大和《だいわ》だ」 「日交《につこう》だ」 「コンドルだ」 「また個人だ。可哀そうに」  常日頃乗りつけているタクシーが浮んで消えるたび、男達はてんでにそう言った。  だが実際には、この惨劇をもっと身近に味わった目撃者が数多くいた。配達に出たトウチャンの車が虚空に浮んだのを見て、トウチャンがあれ程夢見ていた失神とやらを、生まれてはじめて演じたカアチャンがいた。余りにも数多く浮ぶ自社の車を眺めて、半狂乱に陥ったタクシー会社の社長がいる。現金輸送車の消失を見せつけられて辞表を書きにデスクへ戻った銀行マンがいる……。  しかし、どれもこれも斉田には無縁だった。 「少しは減ったがいいんだ」  流石《さすが》に気兼ねして声を落したが、斉田は幾分|溜飲《りゆういん》のさがる思いで空を眺めていた。 「来た来た来た来た」  屋上の金網にしがみつくようにして男達が叫んだ。その位置から僅《わず》かな距離だが高速道路の曲線が見えている。そこにボールが百キロくらいのスピードでさしかかったのだ。 「やった、やった」  黒いフォードがやられた。白いクラウンが消えた。それはすぐ頭の真上に虚像となって浮んだ。 「粉が降って来る……」  誰かがそう言い、空をあらためて見あげた。みんな迷惑そうに服についた粉を払った。粉はキラキラと輝いていて、湿った掌に附着した。ボールの第一周目だったから、誰一人それが車の残骸《ざんがい》だとは思わなかった。 「帰れなくなるんじゃないかな」 「大丈夫さ。ボールは道路でしか暴れない。鉄道は平気さ」 「でも俺は車だぜ」 「馬鹿だな。さっき放送で車を持って来た者は退避しろって言ってたの知らないのか」 「いつもの公園の傍に置いてある」 「知らねえぞ、ボールにやられたって」 「……俺、帰るぞ」  そのやりとりで屋上からかなりの人数が降りて行った。 「課長、社内放送をやってますよ」  新入社員が斉田を呼びに来た。 「何だって」 「なるべく早く退社するようにって……」 「そうか」 「部課長は第二会議室へ集合です。さようなら、お先きに失礼します」  新入社員は言うだけ言うと消えた。 (会議か。何かって言うと会議、会議だ。良い智恵《ちえ》も出ないくせに)  斉田は心中でボヤいた。いつの会議でも発言や提案をする顔ぶれはきまっている。第一、議題がきまると斉田と無縁な時点で、すでに結論は出ているんだ。いつだって本気に考える時間などくれやしない。多分このボール騒ぎに関する件だとは思うが、ひょっとしたら東日商事の件かも知れない。電算機システムの件だったら自分なりに考えてあるし、ひょっとしたら意見を述べるチャンスがあるかも知れない。その意見がとりあげられたらかなり面白くなる……いつもの例で行けば討議のあとでその問題を処理する小委員会ができるのだ。はじめて委員になれるかも知れない。委員になればその代表は常務会で報告、説明のチャンスがある。途《みち》がひらけるというものだ。  斉田は車の粉降る屋上をあとにした。  ボールは北海道、東北、北陸、上信越《じようしんえつ》、関東、東海、近畿、京阪神《けいはんしん》、山陽、山陰、四国、南九州と、日本列島に実に効果的に出現し、走りまわりはじめた。ボールのやり方は日本中どこでも、いや世界中どこでも同じだった。  はじめ人影まばらなどこかの山中で、然《しか》も重要な——ということはよく整備された——道路に転り出て、予《あらかじ》め調べつくした様子で一定のコースを突っ走る。道路の分岐が数多い場所、つまり市街地へ乗り入れると、そのあたりで環流行動をとり、しばらくして思い思いに散って行く。環流した一部はその後も留まって速度をあげ、次第に時速三百キロ近くになり、或る時期を過ぎるとボールの遅速によって互いにすれ違うようになり、追突現象を起しはじめる。  ボール同士の追突は、ボールの増殖作業であるらしい。車を粉砕した時の像より数十倍も明るい球型の色とりどりの像が瞬間的に浮びあがり、道路には無数の小さな、速度の遅いボールが転りはじめる。小さなボールに大きなボールは決して当らない。避けて通る。小さなボールは次第にスピードを獲得し、ある時間走りつづけている内に、直径二メートルから三メートルに膨《ふく》れあがる。  ボールは大きなもの同士、しょっ中衝突しているから、環流している道路内ではあっと言う間にその数が増える。  するとボールは二、三百から千くらいの集団で環流から脱出し、別な地方へ移って行く。移った地方でも環状になっているルートを見つけ、まわりはじめる。そして衝突し、ボールが増える。道路はこうして次々にボールの群れに占拠され、人類社会を繁栄に導いた誇るべき交通手段、自動車は全く用をなさなくなってしまった。人々は恐れおののいて家にとじこもったが、いつまでそうしてもいられず、外出した時は道路で右を見左を見、ボールの通行の途切れたのを確認してから小走りに横断した。歩道橋があれば専《もつぱ》らそれを利用した。……その下をボールが風を切って走る。  鉄道の踏切りには、線路側に警手がつき、ボールの通過を待って電車に道路を横断させた。  ボールに関するいろんなことが判って来た。まず、ボールは人間それ自体には何の関心もないことだ。ボールはひたすら疾走することにだけ関心があり、それを邪魔しない限り害は及ぼさない。横町からのとび出しや、左右不確認で横断する人間だけがボールに跳《は》ねとばされた。その場合粉砕はされない。ぐしゃぐしゃになるだけだ。ボールは積極的に人命を狙《ねら》わぬ反面、人命を尊重しもしない。跳ねられた事故現場の路上に、ボールがなんとか減速に努めた跡は全く認められなかった。ボール同士の衝突も、本来たいしたエネルギーの筈だが、周囲の建物などに被害、とばっちりを及ぼすという例は皆無である。  路上に築いたバリケードは全く無益だった。ボールはバリケードへ至近距離から何かの力線を放射するらしく、あっという間にこれを粉砕した。しかし、その粉砕のしかたは、走行中の自動車に体当りした時のように完全ではなく、荒い砕き方だったため、その砕片が近くの民家に降りそそぎ、大きな被害の原因となった。だから、バリケード作りはすぐに中止された。  虚空に不思議な像を結ばせるのも、相手が走っている車に対するときだけで、停《とま》っている車はバリケードと同じ壊され方をした。従って沿道の住民達はボール通過の合い間をぬって、どしどし停車中の車を道路から脇道《わきみち》の更に小さな横町へ引っぱりこんで隠した。  翌る日の昼、斉田は自宅の茶の間でテレビを見ていた。昨日の会議は期待に反してやはりボール対策の件で、この危険な状態に一応目鼻がつく迄《まで》自宅待機をしようではないかということに決った。  長い小田原評定で、殆《ほとん》どボールに関する雑談と言ってよかった。結局親会社に当る�商事�の決定に倣《なら》ったのだが、時すでに遅く、あらかた平社員は帰ってしまい、各課手わけして自宅待機令を電報や電話で社員達に報らせねばならなかった。  十時頃起きた斉田は少々うしろめたかった。例の大雪趣味が頭をもたげて、新宿のバーへ寄ったからだ。終電は延長されると発表されていたし、こんな時が常連の心意気の見せどころだと勇みたっていた。  女の子は碌《ろく》に顔も見せず、近くから通う子も早くに帰って、心細がるママにすっかり頼られご機嫌《きげん》だったが、帰宅すると蒼白《そうはく》な妻の思いつめた顔が真正面にあり、「あなたァ」と泪《なみだ》を滲《にじ》ませたご対面の直後、酒の香を嗅《か》ぎとられて、「あなたァ」が「あらッあなたッ」に急変してしまった。 「こんな騒ぎの最中にどこで飲んで来たのよ。死んじゃいないかと思って心配してるのに」 「仕事のつき合いで仕方なかったんだよ」 「嘘おっしゃい。前川さんや森さんから何度も電話がありましたわよ。みんな早く帰って電報を受け取ったけど、どうなるんだって」 「あいつらは平社員……」 「平《ひら》も課長もありませんッ。あなたの会社は平社員の命だけ大切にして、課長の命なんかどうなっても構わなくなってるんですか、そんな会社なんだったらすぐ辞めて頂戴ッ」  それから先きはいつもの通り。行くすえ先きざきのこと。三年生と一年生の男の子の将来。増築——子供の勉強部屋——の件。新婚当時、思いつくままに語った口から出まかせの夢のタタリ……。 「ハイ、お水」  朝の光の中で妻が言った。 「お茶だ」 「あら、二日酔いじゃないの」  まだタタリが続いている。 「アメリカでもヨーロッパでも、世界各地に全く同じ現象がまき起っています。このあと十一時、十二時、二時と引き続き宇宙ボール特別番組が予定されていますが、この時間は宇宙ボールが現代の我々の科学ではどうしても解明しきれない要素にあふれているという観点から、特に日頃ユニークな考え方をなさっていらっしゃる方々をお招きしてご意見をうかがいたいと思います。では最初に大杉《おおすぎ》さん、あなたはSF作家として宇宙ボールをどうごらんになりましたか」  ニュース解説者の司会で、カメラはよく肥った男の横顔をアップにする。 「僕はゆうべっからこの局に釘《くぎ》づけになって……」男は率直な口調で、率直に憤慨をおもてに出して言った。「いろんな人といろんな見方を話し合ったんですが、科学の専門家っていうのはどうもおかしいですよ。もうくたびれたですね、僕は。だってそうでしょう。ボールを動物か植物か鉱物かに分類しないとどうしても承知しないんですから。動物でも植物でも鉱物でもないものだって、あったっていいじゃないですか。あれは僕らのまるで知らない物質でできている。答えはこれしかありませんよ」 「清野《きよの》さん、あなたは……」  今度はスマートな人物だった。 「大杉君の言う通りですな。問題は、僕はあれがあれ自体生命なのか、何者かが利用している道具なのかという点だと思いますね。それによって対処するし方が違って来る。僕や大杉氏のようにしょっ中サイエンス・フィクションの世界で物を考えている人間には、こういう場合の思考法が出来上っていて結論が早いんですが……」 「学者はいかんなァ」  大杉、清野のふたりのSF作家に第三の人物が加わる。 「あの衝突はセックスだな」  太い、それでいてどこか少し風の洩《も》れるような声はやはりSF作家の月岡《つきおか》ハジメだ。 「衝突によって増殖するんだからボールはやはりそれ自体生命なんでしょうね」  全員うなずく。 「考えてみれば我々のセックスだって衝突みたいなもんですし……いえ、これは私だけが言うんじゃなくて、一九五二年にスエーデンのハンソンという人が発表した論文の中で、非常に大きなタイムスケールをとれば、人間のセックスだってチョコマカ動きまわる人間同士のほんの瞬間的なぶつかり合いだと」 「生物ってことには違いなさそうだな。しかしその構成物質は我々には見当もつかない」  大杉|実《みのる》がそう言ったとき、司会者は妙な顔つきで一枚の紙をひろげた。 「ちょっとお待ちください。只今新しいニュースが入りました。今朝八時二十分ごろ、御殿場インターチェンジ附近の道路わきで、宇宙ボールが地球侵入に際して用いられたと思われる巨大なカプセルが発見されました。このカプセルは直径約八十メートルの平たい円型で、貝の蓋《ふた》のように上下に組合わさっていたものらしく、発見された時は全く同じ形のものがふたつ並んでいました。内部にはそれぞれ半円形の溝《みぞ》があり、ぬるぬるした液体に満たされています。発見した自衛隊富士駐とん部隊の報告によりますと、このふたつの貝のふたのようなものを合わせると、以前から目撃を報告されていたUFO、つまり空飛ぶ円盤の形そっくりになるとのことです。また内部のぬるぬるした液のつまった溝は、円盤内部に環状のパイプを置いた形になるそうで、同じ液の痕跡《こんせき》が東名高速道路に続いているところから、宇宙ボールはこの円盤内の環状パイプから転り出したものと思われ、それ以外に機械装置らしいものは何も発見されないとのことです。また円盤本体は非常に硬《かた》い物質でできているが、実際に手を触れた隊員の話しによると、まるで繭《まゆ》のような手ざわりだったと言います」  少しの間、互いに顔を見あわせる沈黙があった。 「やはり空飛ぶ円盤の登場ですか。大変なことになりましたね」 「植物みたいな形だと思わない、清野さん」  大杉実が言った。 「豆のサヤみたいなもんかな」 「僕は自転車のベアリングを思い出したな。グリスの中にボールがいっぱい並んでる」  と月岡ハジメ。 「胎児というのは子宮の羊膜の中で羊水に保護されていますね」  これは大杉実。 「朝っぱらからなに変な番組見てンのよ」  これは子供達に気をつかった教育ママ。斉田はチャンネルを廻されて憮然《ぶぜん》とした。 「都心に残留していたボールは、今朝早く明治通りのルートを発見したらしく、亀戸《かめいど》から両国橋《りようごくばし》を渡って新宿という靖国《やすくに》通りを利用して、明治通りの北半分で都心を包み込むサークル運動に移っています。無論首都高速にはボールが走りまわっており、ここは衝突するための増殖場のようであります。明治通り及び靖国通り附近の方は、道路に絶対に障害物を置かぬよう、警察の指示に従ってください」  別な局では道路図を前に、制服姿の本物の警官が声をからして説明している。 「駄目だな、こりゃ」  斉田の眼にもそれは明らかだった。ボールは衝突で増え続け、溢《あふ》れ出して道という道を走りまわるのは時間の問題だった。大阪ではとっくにそれがはじまっている。  正午すぎには山手通り、二時のニュースでは環7がやられた。本郷通り、中仙道、目白通り、青梅《おうめ》街道、甲州街道、五日市《いつかいち》街道、世田谷通り、桜田通り、海岸通り、永代《えいたい》通り、江戸通り、水戸街道……五時までにボールは主要道路のことごとくに走り出ていた。おまけに、東名、中央の各高速から再びボールが侵入して来る。夜九時のニュースでは、第一第二の国道と名神《めいしん》、東名のラインが大環流にされて、ボールの大群が我物顔に疾走しつづけているのが判明した。  ボールが増えて環流は次第に区単位の小さいのが出来てくる。たとえば青山通りと桜田通り、そして明治通りの南部にかこまれた港区は、地下鉄といくつかの歩道橋以外に区外へ安全に出るルートを失ってしまった。早稲田《わせだ》通りや清澄《きよすみ》通りのような比較的細いルートも制圧され、都内のどこにも自動車による騒音はなかった。  東駒形《ひがしこまがた》に車を置いていた向うみずが一人、ボールの眼を盗んで深川平野《ふかがわひらの》町までの一本道を逃げ帰ろうと試み、発見されてボールの大群に追いまわされ、逃げ損ねて粉と散るようなニュースも数多く出た。 「駄目だな、こりゃ」  斉田はその日何十回目かの同じつぶやきを口にして、イレブンPMを見て寝てしまった。イレブンPMもボール特集だった。そのイレブンPMで、ゲストの一人がこう言った。 「あの空に映る大きな自動車やボールは、ボールのセックスと関係があるんでしょうね。連中にとって走っている車は自分達の仲間みたいな気がするんじゃないかしら。だってごらんなさいな。車の時よりボール同士の方がずっと鮮やかに見えるでしょ。車とのセックスはニセ物で、ボール同士のが本物なんじゃない……。ボールのエクスタシーが空に映るんだわ、きっと」  そのゲストは美人だった。斉田は寝てからその美人と衝突する夢を見て昂奮した。めっきり好色になって来た妻が、夢とうつつの区別をつかなくしてくれた。妻はあられもない声で、斉田に子供たちのことを思い出させた。 「馬鹿だな、起きるじゃないか」  そう言うと、ひくひくと体をふるわせながら、「だってえ……」と妻は甘く囁《ささや》いた。「すてきだったんですもの、特別に」 「そうかい」  斉田は闇《やみ》の中でニヤついた。 「良かったわ」 「そんなにか」 「馬鹿ね。あんたが車を持ってなくてよ」 「ボール、こわいか」 「ちっとも。だって、私たちってモータリゼーションと無縁ですものね」  斉田は妻にくるりと背を向けた。(会社はどうなるんだろう)と思った。一生懸命会社の、そして社会の将来を憂えた。だから車を買えないことなど、一向に気にならなかった。  斉田の会社から、何度も電話連絡があった。いま少し出社を見合わせよう……とそればかりだ。親会社の�商事�がそう指令しているから、それに倣ったのだろう。  ハイライトを日に三箱吸う斉田は、買い溜めの必要を感じはじめ、勇を鼓して駅前まで行った。妻も子供も外出させるわけには行かず、家長の彼が野菜や肉、味噌醤油《みそしようゆ》まで買いに行くことになった。買物|籠《かご》を手に、時代劇の泥棒よろしく辻々の塀《へい》に身をはりつけて、ボールの有無をたしかめてから次の物蔭へ走る……そんな男達が増え、顔を合わすと何となく照れて、「ヤア」とかなんとか声をかけ合う。  それにも慣れて来ると——東京西郊のこの建売地帯にはまだボールのボの字も侵入しては来なかった——わざわざボールの通る大きな道まで歩いて行って、こわいもの見たさで横町から褐色のボールをちらっと拝んで来る。しまいに運動不足を理由にして、毎日のようにそこまで散歩し——と言っても万一の場合を考えズックに古いトレパンという身軽ないでたちで——歩道橋の上でボールのやって来るのを待っている。風を切って二、三十のボールが足もとを走り抜けるのを眺めるのは、無害でスリリングな娯楽だった。  しかし、やがてずっと都心寄りの住宅地ではあるが、住宅街の道路にまで五つ六つのボールが侵入して来たとなっては、それも命あっての物種になってしまう。 「俺達は駄目かな」  家族の前で本気で口に出してそう心配しはじめた頃、テレビは遂に自衛策を呼びかけた。 「アメリカの成功例に基づき、宇宙ボール対策として政府は今日、閣議ですべての橋梁《きようりよう》、及び道路の徹底的破壊を決定しました。この決定は国の経済及び財産の莫大《ばくだい》な損失をもたらすことは明らかですが、同時に宇宙ボールによって破滅寸前に追いやられている国民を救う唯一の方法でもあります。国民は総力をあげて道路の破壊に協力してください」  みんなが苛立ち、ヒステリックになっていた。自衛隊の砲火も平気、航空機からの銃撃も無効、核兵器は使えない。手も足も出ない状態に、最初で最後の防衛策が発表された。  ひ弱な都会人、自動化、電化の進んだ現代社会に、よくこれ程|鋤鍬《すきくわ》のたぐいがあったと驚く程、掘削《くつさく》用具が持ち出された。  斉田の家にもシャベルがひとつあった。斉田は妻子のじっと見守る中で、家の前に大きな穴を掘りはじめた。簡易舗装でも仲々|手剛《てごわ》い相手だったが、やみくもにシャベルをこじり、小さな破れ目を作るとあとは平べったく面白いように土が顔を出す。憎らしい砂利、砕石の層が次にあり、柔らかい土に届くまでに一服を六回もやった。ボクシングのセコンドのように、妻がタオルでそのたびに額を拭き、ああしろこうしろと、岡目八目《おかめはちもく》を並べたてる。家の前は四メートル程の幅で、前の家には五十歳くらいの父親と若い息子が二人いたので、その日の内に道路は徹底的に掘り返され、所々にガス管や水道管が顔をのぞかせている荒れ地に変った。区役所の男が何度も見廻りに来て、道の両側を五十センチ以内なら残しておけと言った。歩く分だ。 「あのボールって奴は、なんで平らな道路しか走れないんですかねえ」  夕闇迫る自宅の前で、斉田は今日一日ですっかり仲良くなった前の一家にそう言った。前の家のあるじは鍬を振ったが、その振り方に腰が入っていて、百姓の年季が相当入っていることをうかがわせた。日曜の朝早くというと車が迎えに来てゴルフへ行く、どこかの会社役員だ。 「連中は走ることが生きることなんだそうです。停まれば死ぬ」 「死ぬ……お前、それどこで仕入れた」  前の家のオヤジが息子の一人に言った。 「アメリカの生物学者達の公式見解です。ついさっきラジオで言ってましたよ」 「そう」  ともう一人の息子も言った。金てこで舗装はがしを受持ってたほうだ。筋肉たくましい。「ボールは時速二十キロ以下になると瀕死《ひんし》の状態になるんだってさ。静止すればすぐ死んじゃう。スピードの落ちたところをみんなで押えつけて止めたら死んじゃったそうなんだ」 「ねえ坊っちゃん」  と斉田は訊ねた。「死ぬとどうなるんです。ボールは」 「溶けるみたいで丁度アスファルトみたいになっちまうんですよ」  大学生らしいのは、小生意気な様子で言った。 「暗くなったな、明日にするか。どうです」  オヤジが言ったので、斉田も同意した。あらためて見廻すと、そこら中の道が原型を留《とど》めない程に荒らされている。男手に恵まれた家の前には、石の門柱を引っこ抜いて道の中央に立てたり、大切な庭木を移植したりしたのさえ見える。 「やればやれるもんですなァ」  斉田は沁々《しみじみ》とそう言い、それからふと、戦時中の隣組の協力ぶりを思い出した。 「昔は日本中みんなこうだった。オカミの命令ひとつでみんな気を揃えたもんです」  オヤジも同じことを思ったらしい。 「へっ。オカミだなんて言いやがら」  息子達が笑った。 「黙れゼンガクレン」  オヤジはそれが慣用句なのだろう、大して深刻な様子もなくそう怒鳴った。  斉田達のがささやかなレジスタンス運動だとしたら、都心や主要道路では本物の戦闘が行なわれていた。  まず首都高速の代官山《だいかんやま》のトンネル出口で、皇居のお濠《ほり》の水が切って落された。霞《かすみ》が関《せき》のトンネル内に強力な爆薬が置かれ、高架線の各所と殆ど同時に爆破された。住民は予め避難をさせられ、各所で故意にガス管を爆発させた。自衛隊のヘリコプターが小型爆弾を道路にバラ撒き、安全地帯を作った上で決死のブルドーザーがその中間地帯を滅茶滅茶に掘り返した。荒川放水路にかかる橋が惜気もなく爆撃され、無残に橋桁《はしげた》をさらした。  都心の地下鉄網をなんとか無傷で残そうとする努力にもかかわらず、破壊作業の進行に伴って数ヵ所で落盤し、道路破壊を助けた。  江東方面は無数の小さな橋があるおかげで、物事はより計画的に進んだ。道路破壊を全面的にやらなくても、橋を全部犠牲にすればボール達を分断できるからだ。  とに角、幅が二メートル以上の道はことごとく掘り返され、ぐちゃぐちゃにされる運命にあった。長く広い道路——街道や高速道路は主として自衛隊の手で砲撃、もしくは爆撃で分断され、そのあとに歩兵戦的方法で気長にほじくられた。  随所でボールが無害速度——時速二十キロ以下をそう呼んだ——に落ち、やがて死んだ。死んだあとにはアスファルトそっくりな、平べったい塊《かたま》りが残り、下手をするとその屍《しかばね》の上をボールが更に転って行き、彼らの自主制作による新しい舗道が出来そうだった。しかしこれも人々の手で掘り返された。  日本中から舗装道路が消えて行った。平らなボールが走れる道は、横町一本なくなって行くのだ。  斉田は右隣りの主人と大喧嘩《おおげんか》をした。隣家との間に二メートルたらずの道路があり、郊外住宅地の常として、両家とも私道を買わされていた。つまりそれは斉田と隣家のあるじとの共同所有地だった。  隣家はそこにいつも車を置いていた——週末ドライブ用の360CCだ——が斉田はそれをどかせと言った。現に自分の家の側は掘り返してしまっていた。完全を期するには車が邪魔……しかし隣家に車庫はない。 「無理言わんでください。どこへ持って行けと言われるんです」  青白い、額の広い背の高いその男が言う。 「どこへ持って行こうと僕は知らない。とに角どけてくれ」 「無理だな」  相手はムッとして答えた。朝九時のことである。 「ボールが来たらこの砕片でウチがやられる。お前さんの車でウチがやられちゃかなわないぜ」  斉田は凄《すご》んだ。車庫もないくせに車を持っているので日頃からわだかまりがあった。それがなぜか爆発した。 「この道は私道だ。半分は私の物だよ」 「半分は俺のだ。俺の分に食い込んでいつも停めてる。三百六十五日毎日だ」 「馬鹿なことを……」 「馬鹿とはなんだ。始末しろ」 「できないよ」 「できる。絶対できるぞ」  人だかりしはじめて来た。 「どうするんだか教えてもらいたいね」  相手はやけに煙草をふかせてうそぶいた。 「バラバラにしちまえ。そしてどっかへ積んどけよ」  男は引きつった笑声で、精一杯虚勢を張った。斉田の激しい意気込みに脅えている。 「きみは車を持っていないからそんなことを言えるんだ。車は昔のサムライの馬と同じだよ。殺せるもんじゃない。可愛いんだ。愛情の対象さ。ご理解頂けまいがね」  斉田はその瞬間カァッと頭へ来た。腹の立つ理由が判ったのだ。車がいけないのだ。車があるから持つ奴がいる。持てない奴もできる。四人分の座席に一人で坐っている野郎に、年に一、二度しか坐って会社まで行けない奴の気持なんぞ判って堪るか。しかもこいつは自分と同じ立ちん棒のくせに、こんなオモチャみたいな車のオーナーでございと、向う側の考え方をしてやがる。オタンチンめ。 「じゃ俺の土地にかかってる分だけ削らせて頂くか」  斉田はふだんに似ず胆《きも》が坐っていた。嫌なことを言われても意識を他にふり向けなかったからだろう。久しぶりに現実を直視したわけだ。  シャベルで道路の中央に狙いをつけ、低い車体の天井から突きおろした。ぺしゃっとシャベルが突き抜ける。 「や、やめてくれ、たのむ」 「馬鹿だなお前さんも。こんなことになって二度と車が動かせるかよ。若《も》しすぐ車に乗れるような道に戻ったら、俺が新車をまるごと一台買おうじゃないか」  一生に一度くらい車を買ってもいいだろうと思った。軽自動車という気安さもある。 「そ、そんな、あんた」 「考えてみろ。みんな車のせいだ。モータリゼーションなんて抜かしやがって、自動車会社が車を売る。何がカモォシカァーだ。欠陥だらけの人殺し機械のくせに。カモシカが人を殺すかよ。走るというより飛ぶ感じだって抜かしやがる。誇大広告も良いところだ。飛行機売るのかと思うぜ。役人は儲《もう》かる奴らに便乗したがりやがって道ばかり作る。古い良いものも何も見境いなしにブチ壊してさ。あほらしい。電車なんかを研究して路線も増やして、大勢を楽に運んでくれた方がよっぽど有難い。第一道路がこんなに沢山できやがるから、妙なボールなんかがとんで来るんだ。あいつらだって考えがあらあな。走る道がろくすっぽなかったら、きっと地球なんか見棄ててどっかの星へとんでったろうに。壊しちまえ、こんなもの」  そうだそうだと言う人々が加勢して、スバル360はあっと言う間にスクラップになってしまった。 「済いません、道へ放り出しといてください」  いつの間にか隣りの亭主は消え、細君が斉田や、彼に手伝って車を叩きつぶした人々に愛想よく言った。 「ほんとにご主人のおっしゃる通りかもしれませんわね」  隣りの細君は斉田夫人にそう言った。 「これで子供達も安心して学校へ行けますし、いいえ、ボールのことじゃありませんわよ。自動車のことなんですの。交通戦争もこれでおしまいになるかしら」  交通戦争は綺麗《きれい》さっぱり終った。道路がないのだ。ボールは狩りたてられ、追いつめられて殆ど全滅したらしい。伊豆スカイラインへ逃げこんで、山の中の脇道で辛うじて生き長らえたのも、地元の人達に気づかれて罠《わな》をかけられた。停止が死……思えば割合い簡単な相手ではあった。  植物と鉱物と動物の要素を兼ねそなえた、怪奇な生物であったことに疑いはない。サヤに当る円盤に強い磁気があったことから、サヤの中のボールの子供達が強力な回転運動をしていて、それが何等かの力の場の源になっていたことも推測された。死んで溶けたボールは全然無害だが、学者はそれが無限に増えて行ったとき、地球のほとんどを舗装状態にしてしまったであろうと、今更ながら恐ろしい結論を出した。  つまるところ、宇宙ボールはころげまわることだけが生の目的で、死は子孫に道路を残すだけなのだ。表面を全部ハイウェイにしてしまい、褐色のボールがそこを疾走するだけの星に、すんでの所で地球はなる所だった。  秩序は少しずつ回復したが、モータリゼーションとやらは決定的に否定され、新しい交通手段の開発が要求された。  鉄道のダイヤはいっそう過密になったが、事故はガクンと減少した。車にも乗れない底辺階級だけを運ぶんだという鉄道員の意識低下が、会長や社長や専務クラスも乗せるんだという意欲向上に変じ、公けの機関としての責任感と誇りを回復した。結果は事故の激減。  混みはしたが平和だった。銀座などショッピングセンターには道路……というより細長い広場の再建が許され、人々は道の中央を、わき見しいしいゆったりと歩いた。子供達の間から肥満児が減り、めっきり丈夫になった。遠足は本物の遠足……遠くへ足で行くことになった。排気ガスがなくなり、空が綺麗になって、意味不明のパンチばかり物凄《ものすご》い自動車広告がゼロになった。  まだ問題は沢山あるが、人類は自動車という馬鹿げた道具から解放され、落ちつきをとり戻したように見える。  斉田はオフィスからぶらぶらと歩いて新橋の辺りまでやって来た。どこかで一杯やろうか、まっすぐ帰ろうかと思っている内にそうなった。都心の道は歩道だけで、ついこの間まで車がのさばっていた所は樹や草花が植えられ、至るところ公園のようだった。  決断のつかぬまま、斉田は軍艦マーチの聞えて来る店へ入った。両手に山盛りの玉を買い、連発式の台の受皿へ流し込んで、ポツリ、ポツリと弾《はじ》きはじめる。鋼鉄のボールはあっちこっちの釘にぶつかり、素気なく一番下のアウト穴へ落ちる。やがて最後の一発がてっぺんに入って、下のチューリップがひらいた。玉が十五ふえる。  ドキリとして斉田は台を離れた。 (これじゃまるで宇宙ボールだ)  斉田は肩をすくめてパチンコ屋を出た。まっすぐ帰るのか、どこかへ引っかかるのか、まだ自分でもよく判らなかった。 [#改ページ]   ビ ー     1  夕暮れの歩道を一人の男が歩いている。その男のまわりをとりかこむようにして、今のバスでおりた乗客たちが、男と同じ方向へむかって歩いている。歩道は東西に走る幅の広い幹線道路の端にあって、西にむかって歩く男の左側には、殺風景なビルの壁が続いている。男の真正面の空に、沈みかけた赤い太陽があり、その光が男の顔を赤く染めている。男の右側の車道には、西へむかう車がやかましい音をたてて流れている。車道の中央には高速道路が道に蓋《ふた》をしたようにどこまでもつらなって空をかくしている。次のバスがもう男のおりた停留所へ来て、またたくさんの男女を吐きだしている。男は横断地下道の階段をおりはじめる。男の顔を染めた夕陽は見えなくなり、そのかわり蛍光灯《けいこうとう》の白い光にかわる。横断地下道の中は靴音《くつおと》で溢《あふ》れている。車の音に劣らずうるさいが、誰《だれ》も気にしていない。  男の風体はごく普通のサラリーマンだ。灰色だか紺だかの服を着て、臙脂《えんじ》だか茶だかのネクタイをしめている。ワイシャツも白だかアイボリーだかの色で、背はあまり高いほうではないが低いというほどでもない。顔は面長ではないが丸顔でもなく、いくらか角ばっているところもあるが、とがっているところはないようだ。歩きかたはおそくはないが追い越して行く人もあり、のんびり歩いているのではない証拠に追い越しもする。  男の精神状態だが、たしかにいらだっていると言えよう。しかしそれをはっきり自覚しているわけではなく、かなり大きな不安があるようだが、それを自分で感じないようにする技術にたけているようである。しかも、その不安やいらだちは、横断地下道のコンクリートの壁に響く靴音と同じように、その男のがとりたてて大きいというわけではなく、みんなと似たり寄ったりのものなのである。  年齢は三十八歳。妻がいて子供がいて、車は欲しいと思うこともあまりなく、いまだに持っていないが、家については熱烈に所有したいと願っている。ついこの間まではマンションではいやだと思っていたが、今では自分の家でさえあればなんでもいいというように変っている。  その日は金曜で、男は会社がおわるとまっすぐ帰って来たのだ。横断地下道を出るとすぐ私鉄の駅で、そこから三つ目の駅でおりて八分ばかり歩くと彼の家へ着く。そこは社宅で部屋数は四つある。今の会社に十五年勤めている内に何度か転居したが、今までで一番いいすまいだ。あすは土曜で休み。あさっても日曜で休み。休日を持て余した時期もあったが、今はたのしみができたのでそんなことはない。  横断地下道を出ると男は私鉄の駅にはむかわず、駅前の商店街にある文房具屋へむかった。 「ください」 「はい、何でしょう」  その文房具屋には店の前に週刊誌のスタンドがあり、中には幼児向きの絵本やプラモデルのセットや小さな車の模型なども並べてあった。 「ビー玉をくれませんか」 「はいはい」 「五十個ほど。子供が欲しがりましてね。はやっているのでしょうか」  文房具屋の主人は奥の棚《たな》にあるボール箱から、透明なビニールの袋の中へビー玉を数えて入れた。 「はい五十個。はやっているのですよ。それに、子供ばかりかもう大人になりかけた連中の間でも、近頃《ちかごろ》は大はやりでしてね」 「妙なものがはやりますね。もっとも変な遊びをされるよりはいいでしょうが」 「わたしらも子供の頃はこれで遊びましたからね」  そう言って笑う文房具屋の主人に、男は金を払って店を出た。  たしかにビー玉がはやっていた。男の二人の子供たちも、もう夢中であった。上の子は十二、下の子は八つで、二人とも勉強そっちのけで毎日ビー玉で遊んでいる。  ずいぶん懐しいものがはやると思って、男は子供たちのビー玉熱をほほえましく見守っていた。それに、ビー玉だったら充分子供たちの相手になってやれるのだ。体力は使わないし、そう広い場所もいらない。家の中でだってできるのだ。おまけに男も文房具屋の主人が言ったように、子供の頃は大いに遊んで、今でもちょっと練習すれば子供たちと互角以上のゲームができる自信があった。  そういうわけで、このところ家へ帰ると子供たち相手にビー玉をして遊ぶようになり、実を言えば今買ったビー玉も、子供たちへの土産《みやげ》というより、自分のたのしみのためなのであった。  男はビー玉五十個を持って、いそいそと電車に乗った。  ビー玉の遊び方は昔もいろいろあったが、今のは昔よりずっとルールが複雑になっていた。ゲームのはじめは、まず一定の距離から、きめられた前方の枠《わく》の中へ、各自の持ち玉を順番に入れて行く。枠と言ってもそれは地面にチョークで書いた丸か四角のゾーンである。順番にスローして、各自均等な数の持ち玉を多くゾーンの中へ納めたほうが得点が高い。昔と違うところは、その得点を記すスコアカードがあることだ。  すでにゾーンの中に入っている玉をはじき出してしまうとOBで、ペナルティーをとられる。スローした玉がゾーンにとどまっていればマイナス1。両方とも出てしまうとマイナス2だ。ゾーンにたくさん入っていて、一度に三個も四個もはじき出してしまうと、その数だけマイナスがふえる。  一度スローした玉は入らなくてもそのままの位置に置かれる。最初のスローはラインのところに立って、好きなフォームで投げていいが、次のゲームでは昔どおり拇指《おやゆび》と人差指ではさんで、中指を支点に前方へはじきとばすわけだ。支点の中指は完全に玉が手を離れるまで、地面から外《はず》してはいけない。もし外れると一番きついペナルティーをとられる。  指ではじくゲームに入ると、飛距離が急に短くなるから、ゾーンに近い玉をとったほうが得だ。だから順番の早い者が有利なわけで、その順番は第一のゲームの得点順できめられる。同点の場合は最後の一投の位置がゾーンに近い者を優先し、両者ともストライクだった時は、ゾーンから玉をとってもう一投ずつ、勝負のつくまでやる。  フィンガー・ゲームになった場合、指をぬらすのは違反である。さりげなく鼻をこすって脂《あぶら》をつけるのも違反で、その場合には全得点が、マイナスにひっくり返される。  スタンド・ゲームからフィンガーに移る場合、かなり頭脳的なプレーが要求される。  というのは、フィンガーになると自分の玉はゾーンに入れるまで各自の持ち玉として固定されるからだ。したがってフィンガーのポジション争いをもかねるスタンドの後半では、相手の得点をよく計算して、わざとライン近くに落すようなかけひきも要求されるのである。スタンドで断然有利になったら、ストライクをひとつわざと損をしても、相手に不利なポジションを与えたほうが、次のフィンガーで更に差がつけられることになる。  ただし、スタンドのラインとゾーンの間にもう一本ラインが引かれていて、そのラインの外側、つまりゾーンから遠い位置にある玉は二度はじいてパー・プレイとされている。だからうまく飛距離をのばすと、ゾーンのすぐそばの玉を取ったのと同じことになり、逆に一度で入れると得点が普通より高くなってしまう。  それに、意地悪をしてわざとラインぎわに落しても、敗けている方がもう一個同じ位置に落すと、残りの玉数によっては自分もラインぎわの玉を取らされることになるから、かなり深い読みが必要になる。  フィンガー・ゲームで全部の玉がゾーンに入ると、いよいよ最後のプッシュ・アウト・ゲームである。別に持ち玉を出し、さっき説明したもう一本の、ゾーンに近いラインの外から、スタンドのフォームでゾーンの玉をはじき出すのである。  これも昔あったやり方のひとつだが、フォロー・スルーでラインの外へ足を出してはいけないことになっている点が違う。もちろん多くはじき出した者が勝つのだ。  最初のスタンドではアンダー・スローが絶対有利だが、最後のプッシュではオーバー・スローのほうが得である。じかに玉同士をぶつけるように狙《ねら》ったほうが確実だからだ。  ざっとこんなルールで、やってみると大人でも結構夢中になれる。男の家では彼の妻まで参加して、一家四人が狭い社宅の庭で半日たのしく遊んだりするのだ。  使用球はなぜか或る一定の玉が子供たちに好まれていて、ほかの玉は見向きもされない。青味がかったガラスの中に、黄色とオレンジとコバルト色の三色のねじれた不透明な帯が中心から放射状に出ていて、実際にゲームをしてみると、バランスといいころがった時の色合いといい、子供の遊び道具とは思えない質感があった。長男の説明によると、それはニッキューショーつまり日本球形硝子というメーカーの玉だそうである。日球硝はそのビー玉の特許を持っていて、子供たちの間でいくらビー玉がはやっても、日球硝以外のビー玉は使われていないようであった。  とにかく親子が対等にゲームができて、面白くて安あがりなのだから言うことはなかった。     2  男はビー玉のたのしみを憶《おぼ》えてから、急にマイホーム主義者になった。  と言っても、それなら以前は反マイホーム主義者だったかと言うと、そうでもない。会社と家庭の束縛を受けて、不満とあきらめを感じつつ、両者を努力と無気力の源泉にして、大した出世もせず、大した失敗もせずにやって来たまでのことであった。  会社がいやになることもあれば、家庭がうとましくなることもあった。だが、会社がいやになっても、やめるわけには行かなかったし、いやになるたび出勤を遅らすわけにも行かなかった。その点では会社の拘束のほうが強かった。  だが、帰宅を遅らせるのはかんたんであった。会社がいやになってもやめるわけに行かないのは家庭があるせいだと感じ、朝遅刻できない分を帰宅時間のほうへ振りかえるのである。麻雀《マージヤン》屋や安い酒場で時間を潰《つぶ》し、仕事の疲労の上に意味もなく遊びの疲労を重ねて、やっとわが家へたどりつくのだ。その疲れが会社と家庭の中間でかすめとった自由のあかしであり、それでなんとなく自分を慰めて翌日また出勤して行く。  ところが、ビー玉以来彼は会社の拘束を家庭へ振りかえなくなった。自由は家庭の側にあり、会社は家庭を成りたたせるための手段であると割り切りはじめたのである。ビー玉によって妻や子供たちとの結びつきを確認したらしい。  熱中できるものを持つということは幸福なことであった。愚にもつかない子供の遊びと思っていたが、ビー玉の新しいルールは意外に奥行きが深く、単なる少年期へのノスタルジアなどというものではなくなった。  毎日毎日ビー玉をした。陽がさす内は狭い社宅の庭でやり、夜になると家の中で二人の子供を相手に、テレビを見ることも忘れてゲームに興じた。小さな優勝カップを買って来て、週間の得点総計で日曜の晩に贈呈式をしたりする。もちろんささやかだが男のポケットマネーから賞金が出て、子供たちはそれめあてに本気で父親に挑《いど》んで来た。妻も全試合に参加するというわけには行かぬが、手早く家事をすませてゲームに参加するのであった。  ビー玉のゲームを通じて父と子は対等の男同士の関係を味わうようになった。男は少年の頃かなりビー玉遊びを経験していたから、子供たちは父親を先輩として尊敬することも知った。  ナイターと称して、照明器具を持ちだしたのは子供たちの夏休みがはじまってからであった。その頃にはもう、大の男がというような照れ臭さはまるでなくなっていて、むしろビー玉ゲームの面白さを知らない近所の人々に、教えてやりたいほどの心境になっていた。  すると、同じ社宅の連中が、一人、二人と見物に集るようになった。意外なことに、彼らもすでにビー玉ゲームの新ルールを知っていたのである。  考えてみれば、子供の間でこれ程流行しているのだし、その社宅は世帯持ちばかりが集っているのだから、みな自分の子供たちに教えられていてもふしぎはない。 「どうです。仲間に入りませんか。案外面白いものですよ」  などと誘ってやると待っていたように、 「そうですか。それじゃ」  と言って、家から自分のビー玉を持って来て男の家のナイターに参加する。その人数が夏休みの内に次第に増えて、その社宅の父親たちは全員参加することになってしまった。  夏休みがおわっても、父親たちのビー玉熱はさめはしなかった。男の家の庭がビー・ゲームの公式コートのようなことになって、土、日は子供抜きの、大人たちだけの白熱したゲームが展開されることになった。  男は暇を見てはビー・コートの整備をした。庭からビー・ゲームに邪魔な木や石がとり除かれ、はじきとばされた玉が庭の外や縁《えん》の下へ行ってしまわぬよう、板で囲った。仲間が男の仕事を手伝いに来て、男の家のささやかな庭は、立派なビー・コートになった。  気がついてみると、会社でも麻雀や酒で帰宅を遅らす連中が減りはじめていた。以前と同じように退社後誘い合って麻雀をしたりしているのは、まだ独身の若手社員だけで、世帯持ちの古い社員たちは会社がおわると一目散に帰ってしまう。どうやらみな自宅でビー・ゲームに熱中しているらしかった。  同じ会社の、すぐ近くにある社宅の連中から、ビー・ゲームの試合を申し込まれたのは、その秋のおわりであった。その頃には社内の昼休みの話題はビーのことで持ち切っていて、そうした傾向はどの会社でも同じことらしかった。  日本中にビーがはやりはじめていた。  いつの間にか男は社宅対抗のビー・ゲームの幹事のような立場になっていた。人の先に立ってそういうことを運営するなどという経験は一度もなかったが、ことビーに関する限り、男は人が変ったように積極的になった。  大勢のビー・プレイヤーたちとゲームをしてみると、どうやら男はビーの才能に恵まれているらしかった。スコアーはいつでもトップクラスであったし、人がむつかしいという技術も、彼には大して苦にならなかった。積極的になれるのは、そうしたビーに関する自信が背後にあったからである。  男は上役、同僚、後輩の別なく、乞われれば親切にビーのテクニックを教えてやった。コーチ役にも案外適性があって、男に教わると腕があがるという評判が立った。  取引銀行からビーの対抗試合を挑まれたとき、会社の上司はすぐ男をキャプテンに選んだ。男はいまやビー・ゲームのエースであった。初冬の日曜日、郊外にある銀行の運動場に贅沢《ぜいたく》なビー・コートが何面も作られ、大勢の社員たちが観戦に集った。銀行のチームも仲々の腕達者|揃《ぞろ》いで、ゲームは一進一退の白熱戦になったが、結局キャプテン同士の一戦で男が勝ち、勝利は男の会社へもたらされた。  正式に社内のビー・クラブが発足したのはその次の週で、クラブ員は他のどのクラブよりも多くなった。  年末、あちこちでビー・コートが営業を開始した。丸の内ビー・クラブとか、銀座ビーとかいう名称で、一時間いくらの貸コートが誕生し、どれもひどく繁昌した。いつの間にかビー人口がそれ程の数に成長していたのである。  そのだいぶ前から、ゴルフ熱が下火になっていた。各地のゴルフ場建設に不正があったことや、自然破壊をともなうことが世の批判を浴びていたが、最終的にはやはり遊びにしては金がかかりすぎるからであったのだろう。  その点からいうと、ビーはまったく日本的であった。子供たちのビー・コートは畳一枚分ぐらいの広さで結構遊べたし、大人用のデラックス・コートでも畳数にして縦三枚分幅二枚分で充分だった。  初期のビー・コートは各自が都合のよい大きさでやっていたが、やがて日本ビー協会という中央組織ができて統一ルールとコートの規格を定めてからは、少くとも大人たちのビー・ゲームはそれに従うこととなった。例の日球硝の三色玉が公認球となり、日球硝は町のガラス・メーカーから一躍有名会社になった。  東京の町のあちこちに、ねじれた三色の帯を標識にかかげた日球硝の直販店が現われる。二面ないし四面のビー・コートを持った小さな店舗で、公認球のほかにもっと安い練習球を売っていた。或る出版社が月刊ビーという専門誌を発行すると、ビー・ゲームとか、ビー・プレイとかいう同種の雑誌があいついで出現し、大新聞の日曜版も、ビー関係の記事を扱いはじめた。  プロのビー・プレイヤーが登場したのは、テレビがビーの実況番組を放送しはじめてからである。彼らはすでに長い間マスコミや芸能界で活躍していたタレントたちで、これからは本業よりビーのほうが面白そうだと思ったらしい。日本ビー協会の第一期の認定プロとして、十数人が一度にプロ・ビーの世界を形成した。  男はテレビ局から招かれて、ときどきそういうプロと試合をした。さすがプロで、いつも男は惜敗させられたが、アマチュアのビー界では最右翼の存在であった。  会社も、そういう有名なスポーツマンがいるのを名誉に思い、今迄《いままで》のように粗末には扱わなくなった。子供たちも、憧《あこが》れのプロたちと、テレビの試合で互角に渡りあう父親を誇りにしているようであった。  それに、いつの間にか男の収入が増加していた。余りほめたことではないが、ビー・ゲームには賭博《とばく》行為がついてまわった。  ビー・ゲームの最終コースにあるプッシュでは、ゾーンの中の玉をはじき出す競争になるのだ。ルールによって持玉を十個から五十個ほど出すのだが、最後のプッシュ・アウト・ゲームの時、それが賭《か》けられる。自分がはじきだした分だけ、自分のものになるのだ。  子供たちの間でビーがはやりはじめた時からプッシュではそうしたギャンブルが行なわれていた。たかがビー玉のことではあるし、それにメンコでも何でも、そういう賭けは昔から伝統的に存在していた。  だが日本中の大人たちがビー・ゲームに加わってからは、事情がだいぶ違ってしまった。需給関係の変化でビーは子供の遊び道具とは言えない値段に上昇していた。今や子供たちは日球硝の三色球以外の、もっと安物のビー玉しか使えなかった。大人たちは公認球を数多くためこむことに、大きな誇りと喜びを感じはじめていた。     3  ビーの効用は体の余分な脂肪、ことに下腹部の贅肉《ぜいにく》をとり除いてくれることであった。よいビー・プレイヤーになりたかったら、腹の脂肪を落さねばならない。靴紐《くつひも》を結ぶのに唸《うな》り声をあげるような体つきでは、しゃがんだ姿勢で指先の微妙なテクニックを競うビー・ゲームに勝てるわけがなかった。  商売上手な体育関係者の中から、ビー体操なる新しい体操を教える者が何人も出現した。  ビーのスコア・カードや、ビー・シュ—ズ、ビー・スラックスなども商品化して、世の中はビー一色といった感じであった。  たしかに、石油危機とか物不足とか言われる世相に、ビーはぴったりと合っているようであった。広大な土地を要するゴルフや、金の掛った設備がないと楽しめないボウリングと違い、ビーは僅かな土地とガラス玉だけでたのしめる庶民的なゲームであった。  ひょっとすると、あまりにも庶民的でありすぎたかも知れない。ビー・ゲームは男ばかりではなく、女も子供も、まったく同じルールで楽しめたし、かなりの老人でも参加できるゲームであった。日本中がビー熱にうかされ、そのため例の日球硝はいつも生産に追われることになった。新しいビーが手に入りにくくなり、ビーの価格はいっそうあがって行った。  男は夕暮の歩道を歩いていた。  そこは彼の家に近い場末の商店街で、勤めから帰る人々や夕食の材料を買いに出た主婦たちで混雑していた。  男は文房具店へ寄って、子供のノートを何冊か買って帰るつもりであった。  以前はその文房具店でも日球硝の三色球を売っていたものだが、もうとっくにそんな名もない店では扱えぬ商品にかわっていた。 「あれ、ノートはこれだけしか置いてないのかね」  男は呆《あき》れたように店の主人に言った。 「紙不足はひどくなる一方ですよ。今日は仕入れをしたばかりだから、それでもこれだけ置いてあるんです。二、三日したら一冊もなくなるでしょうね」  文房具屋の主人はそう言ってから、ふと男の顔に気付いたようであった。 「これはこれは、あなたでしたか」  ビー・プレイヤーとしてテレビでおなじみの顔にぶつかり、文房具屋の主人の態度が急にかわった。 「お子さんのノートですね」 「そうです」 「まだ店に出していない分で上等のがあります。おとくい様にとっておいてくれと言われるものですから。でも、決して買占めや売惜しみではありませんよ」 「どうも、いくら何でもこのノートではひどすぎますからね。上等のを売ってくれますか」  すると主人は下品な笑い方をして、 「あなたなら特別にお売りしますよ。でも、ビーで払っていただけませんか」 「ビーでかね」  男はびっくりして問い返した。 「そうです。わたしも下手の横好きでビーをやるんですが、いつも敗けてばかりいるのです。だからもう手持の玉が心細くなってしまって、この分では大好きなビーもできなくなりそうなのです。日球硝の玉はずっと品不足で、入荷次第申込みの順番に売ってくれはしますが、いつわたしの番になることやら」  男はポケットに手をつっこんでビーをいくつかとりだした。主人は大よろこびで、ノートの代金をビーで受取った。  そういうことが増えて来た。寒い冬になるとまた灯油不足がはじまったが、今度は男の家では不自由せずにすんだ。  ふんだんにビーがあるからであった。トイレット・ペーパーも洗剤も、同じようにビーでなら手に入った。男は円という通貨が急激に権威を失って行くのを実感した。灯油など、いざ不足となると二倍三倍の円を払っても買えなかったが、ビーでならどこからか品物が姿を現わすのだ。  男はその冬、意を決して会社をやめてしまった。前から日本ビー協会がプロにならないかとすすめて来ていたのだ。これからはビーの時代だ。ビーを掴《つか》むことこそ豊かなくらしへの近道だ。男は次の時代をそう感じたようであった。  社宅を出て都心のマンションに移った。ビーのプロとして、そのくらいの家賃は支払えるはずであった。もっと稼《かせ》いで、いずれは自分の家に住む決心であった。  たしかに、プロのビー・プレイヤーはわりのいい商売だった。プロ同士の試合にかけられる賞金は、いち早くビーで支払われることにされていたから、どんな物不足になっても困らなかったし、ビーで払うと言えば足もとを見て高く吹っかけられることもなかった。  彼がプロになってすぐ、日本ビー協会所属のプロたちは、協会と交渉してすべての支払いをビーで受けることにきめた。  これは新聞や週刊誌でも大々的に報道され、大いにうらやましがられた。ビーは今や通貨と同じであった。しかも常に不足気味の通貨であるから、物資を呼び寄せる力は円の十倍以上も強かった。  円対ビーの相場がじりじりとあがって行き、物不足が起るたびにビーをぐんと押しあげた。  いまや一ビーは三百六十円になった。ビー強盗が流行し、ある誘拐《ゆうかい》事件では身代金にビーが要求されたりした。  大蔵省はビーによる取引を禁止するよう政府に働きかけたが、ビー・ゲームそのものを禁止できぬ以上、たとえ法律を作っても無駄であることははっきりしていた。それに、政治家や官僚たちもビーのファンであった。ビーはしだいに通貨として大きな存在になって行った。  全日本プロ・ビー選手権で男が優勝したのは、そういう世相の中であった。  なんとその選手権で男に与えられた賞金は、一千万ビーであった。史上空前の賞金を手にした男は、高級住宅街に大きな庭のついた家を手に入れ、念願を果した。  おかしなことは、ビーの価値がいっこうに下落しないということであった。通貨としての機能を持つに至りはしたが、ビーは本来通貨ではなく、玩具《がんぐ》業界から発生した商品の一種なのである。だから物価がいくらあがっても、物対ビーの価値関係は変化しないのだ。変化するのは円対ビー、円対物の関係だけである。  ビーさえ持っていればインフレはこわくなかった。男が大邸宅を手に入れるとすぐ、近くにある大銀行の支店の男たちがやって来て、うちの銀行へビーを預けてくれと言った。まだ銀行が正式にビーを扱うことは許されていないが、実際には一部の顧客にビーを用立てたり、ビーを保管したりしなければとてもやって行けない世の中になったのだ。  たとえば或る金持が何かを欲しくなった時、それが不足している物だったら、ビーでなければ手に入らないのだ。そういう時、銀行はどうしてもその金持にビーを用立ててやらねばならない。  また新規に巨額の円を預金させる場合でも、必要な場合には或る程度ビーを用立てるという約束をしなければ、ほかの銀行に客をとられてしまうのだ。  男は大量のビーをしまいこんでいることに不安を感じていたから、厳重な契約書を作らせた上で、その銀行にビーを預けた。もちろん年に六パーセントほどの利息がつき、その利息も原則としてビーで支払われることになっていた。  男は満足であった。時に銀座へ友達と飲みに行き、女たちにビーでチップをやった。  どんなに物がなくなっても、ビーさえあれば安心であった。円で買えなくてもビーなら自由に買えるのだ。  やがて海外でも日本のビーのレートが問題にされはじめた。正式通貨は円だが、実際にはビーのほうがはるかに強力で権威があった。  アメリカやイギリスやフランスなどから、日本のビーを狙っていろいろな人間がやって来た。彼らの多くはビー・プレイヤーとして活躍しはじめた。脚と指が長いというだけでも、外人ビー・プレイヤーは日本の脅威であった。  日本人ビー・プレイヤーの血みどろのたたかいがはじまったのは、その頃からであった。ビーの海外流出を防ぐため、プロのビー・プレイヤーたちは国益をかけたゲームに血の汗をしぼらなければならなくなったのだ。     4  男は立派な部屋の中に緊張して立っていた。彼の前には大蔵大臣と総理大臣が並んで坐《すわ》っていた。  何かにつけとかくの風評がある二人の政治家も、さすがに真剣そうであった。 「日本のビーを守ってくれたまえ」  大蔵大臣はそう言って深く頭をさげた。 「明日のゲームで君が敗けたら、日本の経済はえらいことになる。何がなんでも勝ってもらわねば困るのだ」  男は頷いて見せた。 「全力を尽します。命がけで日本を守ってみせます」  国際プロ・ビー・トーナメントで、一人のアメリカ人が日本の強豪をなぎたおし、とうとう明日の優勝決定戦へ勝ち残って来たのだ。  男の身辺にはとっくにガードマンがつけられていた。スポーツとは言え一国の経済がかけられているのだから、相手の選手は別としても、その背景にある組織がどんな無法をしかけて来ないとも限らなかった。右足の拇指だとか右手の拇指の腹に棘《とげ》を一本さしても、明日の勝敗はきまってしまう。CIAなどというのは、そういうことは朝飯前にやってのけるはずであった。  男はまさかそこまでと思ったが、政府の意を体した日本ビー協会がつけてくれた三人のガードマンにかこまれて、この一週間を過して来たのであった。  夕食はステーキを中心にした献立てで、明日の試合にそなえたスタミナ料理であった。 「パパ、頑張《がんば》ってね」  子供たちは食事のあとで激励すると、足音をひそめて自分たちの部屋へ戻って行った。家中が男のコンデション調整に、息をひそめている感じであった。  その大切な試合前日の夜中、男は烈しい下痢に見まわれた。緊張の余りだろうと軽く考えていたが、腕ききのガードマンたちは最後に呑《の》んだオレンジ・ジュースに何かの薬物が混入してあったのを発見した。  敵方の謀略に違いなかった。大学病院の医師たちが叩き起され、男の家へ駆けつけた。  さいわい強い薬物ではなく、相手は彼の体力の低下を狙っているだけのようであった。たしかにその大して害のない下剤の混入は、心理的に相当な効果があり、男は遂に睡眠不足のまま朝を迎えた。  十時に男はオリンピック施設を改造した東京ビー競技場へ入った。すでに満員の観衆がつめかけていて、午後一時の試合開始を待っていた。 「ただのガラス玉になぜこんな価値がでたのかわからん」  控室に大蔵省の次官が顔を見せ、そんなことをぼやくように言った。 「円だってただの紙きれではありませんか」  日本ビー協会の会長がそう反論した。 「メモにもならんし、はなをかむには小さすぎる。それでも一万円札は一万円の価値を持つ」 「それはそうだが」  次官は憮然《ぶぜん》としていた。 「でも子供の遊びだったビー玉に、一国の命運がかけられるようになろうとはな」 「戦争だったら納得しますか。われわれは今までこういう国際的な対決を、お互いの武力によって行なっていたのです。そのために何百万という生命が失われ、資源が浪費されて来たのです。それにくらべたら、ビーのような平和的な手段ですますことができるのは、大した進歩ではありませんか」 「しかし、円が補助貨幣になりさがってしまうというのは……」  すると男のマネージャーが大声で叫んだ。 「おふたりとも、そんな議論はよそでしてください。彼はもうすぐ日本のためにたたかわねばならないのです」  会長と次官はこそこそと逃げだして行った。 「いいか。冷静にたたかってくれよ」  マネージャーが最後のアドバイスをした。男は目をつむった。妻や子の顔がうかんだ。  米人選手は恐ろしく背のひょろ高い男であった。手の指と来たら男の倍も長かった。  だが、フィンガーになればその背の高さが不利になるはずだった。警戒すべきなのは、最初のスタンド・ゲームと、ラインが近くなる最後のプッシュ・アウト・ゲームであった。  午後一時、二人は満員の観衆に見守られてメイン・コートへむかった。両国の国歌がかなでられ、観衆は起立してそれを聞いた。  ゲームは開始された。  先攻は米人選手からであった。第一投を彼はゾーンの一番手前中央に見事に納めた。スタンドからどっと歓声があがった。  男は深く息を吸い、慎重に投げた。玉は静かにコートをすべって、米人選手の一投目のわずか左側に入った。見事なでだしであった。ゾーンの中の手前のラインすれすれに玉を並べることは、スタンド・ゲームの基本だった。そうすればあとからの玉がストライクに向っても、前に投げられた玉に触れなければ、ゾーンには入らないわけである。  二人の玉はゾーンの手前に壁を作ってしまった。米人選手は長身を利して、できるだけゾーンの近くから、ゆるい玉を投げはじめた。先にゾーンに入った玉と当って二、三回転させる程度の力でストライクをとるのである。男もそれと同じ作戦に出た。  五十球持ちのルールで四十六球目、男のスローにわずかに力が入りすぎた。投げた玉はストライクになったが、はじいた玉がコロコロと右へころがって、ゾーンのラインを割ってしまった。  息をつめて見守っていた観衆の間に、うめくような声があがった。日本側マイナス1点であった。  米人選手は意気揚々と四十七球目をストライクした。男もそのあとは失敗せず、米人は五十球目に入った。ゾーンの手前に百個近い玉の壁が出来ていた。少しでも力加減を誤まればマイナス1はおろか、2ということもあり得る状況であった。  米人は男の表情を盗み見るようにしながら、最後のスローをした。玉は大きく右へそれ、全観衆が息を呑んだ。しかし玉はゾーンの近くで急にコースを変え、玉の壁をさけてゾーンにまわりこみ、エンドラインぎりぎりでとまった。長い指だけが果せる恐るべき妙技であった。  その瞬間、男はニヤリとした。すぐ五十球目をかまえたが、その視線はゾーンに向けられてはいず、二番目のラインを狙っていた。  それを知ったとたん、米人選手はオーと言って頭をかかえた。絶妙のプレーを誇ったばかりに、大変な逆襲をくらったのである。  男の五十球目はゾーンとスタンド・ラインの間にある第二のラインぎりぎりでとまった。ポジションの順では、スコアーのいい米人選手がゾーンに近い玉をとるルールになっている。男が外した四十六球目は、ゾーンの外すれすれにあり、フィンガーで入れるのは子供にでもできた。  男は慎重にしゃがんで遠い玉をかまえた。低い姿勢で充分に狙った。第二ラインの外の玉を、一回のフィンガーで入れるとプラス1になる。距離が遠いから二回でパー・プレイなのだ。すでに五十対四十八で二点差になっているが、わざと外したその玉を一回で入れれば、一点差につめることができる。その上フィンガーでは遠い者から先にやるルールだから、ゾーン外の相手の玉をはじきとばすこともできる。  もちろん男はそれを狙っていた。だが至難のわざである。テレビを通じて日本中の人々が、その至難のわざを待った。  指から玉がはなれた。明らかに玉にはカーブがかけられていた。三色の帯が斜めに回転して見えた。  カチン。  男の玉は米人選手の玉をはじいた。相手の玉は勢いよく遠のき、男の玉はクルクルと横に空転しながらゾーンへ入ってとまった。  なんという妙技、なんという至芸であろうか。スタンドの観衆が大歓声を男に浴せた。  わざと二点差に落ちながら、それを一点差に戻したばかりか、相手にマイナスの危険を与えたのである。  しかし、裏側からのフィンガーは、ゾーンのうしろがガラあきだけにかんたんであった。米人選手は腰高なかまえから難なくストライクしてゲームの第一段階はおわった。  その死闘はビー・ゲーム史上特筆されるべきものであった。両者たがいに一進一退をくり返し、第一試合は遂に引きわけとなった。第二試合では男が終始優勢で、米人選手は一点差で敗れた。  第三試合で引きわけか或いは男が勝つと、それで世界選手権は日本の手に納まることになる。  しかし男は第二試合のおわりごろから、ひどく疲れた様子を示しはじめていた。立っているのさえつらそうで、汗びっしょりになっていた。  どうやら昨夜の薬物には、遅効性の何かがかくされていたようである。  男は必死にたたかった。かすみがちな目をこすりながら、スタンド、フィンガー、プッシュとたたかい抜いた。遂にエラーはださなかった。  最後のプッシュをおわり、引きわけとわかったとたん、男はどうとコートに倒れた。  俺は日本を救った。アメリカに勝った。  うすれゆく意識の中でそう思ったが、やりとおしたという喜びのほかには、何の感慨もなかった。ただ、人々の中にまじって、平凡にくらしている頃がなつかしいだけであった。人々の代表として華々《はなばな》しく何かをやるのは、ひどく虚しく、そして辛いことだと知ったのだ。  日本の国運がかけられていたにせよ、ビーはビーであった。大蔵次官が言ったように、それがこれ程の騒ぎになるのはおかしかった。ビー玉遊びは子供の遊びであるべきだった。ガラス玉で物が買えるのは、本来ならひどく未開の社会であるはずであった。  男は最後に、もうビーなど二度とやるまいと思った。ビーに価値がある国には生れたくないと思った。  その男が死んだあと、どの国の人間に生まれかわったか、知る由もない。 [#改ページ]   超古代の眼     1  むかし、ある山国にひとりの老人がいた。老人は石切りの翁《おきな》と呼ばれ、巨《おお》きな岩を思いどおりの形に仕あげることができたばかりか、人々を指図《さしず》して巧みにそれを山奥から運びだすこともできた。  石切りの翁は岩を割り、石を刻んで人やけものの形にするわざにも長じ、その石の像が人々をたのしませたので、どこへ行っても敬《うや》まわれ、貴《とうと》ばれた。  しかし、翁は毎日石を切ってばかりいたのではなかった。川の水を堰《せ》くための大岩はそれなりに、子供の掌にのるような小さな像のためにはそれなりに、向き不向きの石のたちがあって、それらしい石を探《さが》しだすのがひと仕事だったのである。  そのために、翁は遠くの見知らぬ山々へまでわけ入ることがあった。人はよく、そんな山奥へ行ったら、悪いけものにあだをされるのではないかと案じたが、翁はいっこうに気に留めないようであった。  それもそのはず。実は石切りの翁は山の鳥やけものの気持がよく判るのであった。狐《きつね》にも熊《くま》にも鴉《からす》にも蛇《へび》にも、それぞれ人と同じような心があって、その心の動きを翁は手にとるように知ることができたのだ。  それは長い年月《としつき》、石を求めて山歩きをしたために身についたものではなかった。生まれおちたときから、ただなんとなくそういうことが判るのであった。  だから、子を連れた熊が近くにいれば、なんとなくそれを感じ取って道をよけることができたし、腹をすかせた狼《おおかみ》の群れなどは、ずっと遠くからその動きがよく判るのである。  したがって、こわいと思うことはなく、平気でたったひとり、人の踏みこんだこともない山奥へわけいることができたのである。  ところが、その石切りの翁が、若い頃《ころ》から近寄るのをさけていた場所が、一ヵ所だけあった。それはずっと西のほうの鳴る滝と呼ばれる大きな滝のあたりで、二年か三年に一度くらい、けものを追った人々がそのあたりへも行くことがあるが、ふだんは誰《だれ》も用のない場所で、人々は大きな音のする滝だという以外、さして気にもとめず、ましておそれることなどはなかった。  しかし、石切りの翁にとっては、そこはなんとなくおそろしかった。近づくと、翁は心の中で、何かが大声で叫びだすようなのだ。それは、子を連れた熊がすぐ近くへ来たときの何倍も高く、何倍もはっきりした叫びであった。  ほかの者は気づかぬらしいが、あそこにはきっと何かおそろしいものがかくれているのだろう。翁はそう思い、長い間そこを避けていたのだが、年をとるにつれて、だんだんふしぎな気がして来るのであった。  いったい、鳴る滝にいるおそろしいものとはなんなのだろうか。年老いて世の中のいろいろなことを知った石切りの翁にとって、自分だけがおそろしいと感じる鳴る滝のことが、しだいに心をとらえるようになった。  人々に敬まわれ、貴ばれる石切りの翁のもとには、何人もの若者たちが集って、その石切りのわざを学んでいた。翁はそれらの若者たちに自分のわざを教えこみ、今ではたいていのことは、その若者たちがかわりにやってくれるようになっていた。  ある日のこと、翁はぶらりと行くあてもなく歩きはじめた。近くの山をまわって、美しく咲いた花でも眺《なが》めてこようという気持であったが、歩きながら過ぎた日々のことを思い出しているうち、足はいつの間にか鳴る滝のほうへ向っていた。  ずいぶん遠くまで行ったことがあり、たいていのところは知っていたが、鳴る滝だけは遂にこの年になるまで一度も見たことがなかった。ほかの者は平気で行くのに、こわくて行けなかったのである。それがなにかくやしいような気がして、死ぬまでに一度はこの目で見ておこうという気持になったのである。  そのあたりは、山深くはあったが樹々の緑の濃い、おだやかな土地であった。北へ行けば岩だらけの、鬼でも棲《す》んでいそうな荒れた土地があったし、東には沼や曲りくねった川の多い、湿った土地があった。南には言葉もよく通わぬ人々が住んでいて、うっかりすると殺し合いになりかねない。だが、西の道はどこまでも山また山の、迷いやすいが木の実や鳥の多い、翁たちにとっては歩きやすい土地がつらなっていたのである。  鳴る滝はその西の道のだいぶ奥にあって、一年中|轟々《ごうごう》という大きな音をたてつづけていた。その音は遠くからでもよく聞え、山へわけ入った者が道を見失っても、滝の音をたよりにしていればすぐ元の道へ出ることのできる、道しるべの役を果していてくれた。  だが、翁にとって、その道しるべにもなる滝の音は、同時にこれ以上近寄るなと告げる妖《あやか》しの声でもあった。翁は長い間、その身内から湧《わ》くような妖しの声の命ずるままに、決して鳴る滝には近づかなかったのである。  そのときも、翁は滝の音がかすかに聞えはじめると同時に、妖しの声を聞いた。今まではそれを聞くと、そそくさと逃げだしたものであったが、今度は違っていた。是が非でも鳴る滝へ行って見ようと決心していたので、その妖しの声がどこから聞えて来るのか、足をとめて耳をすませた。  それはたしかに滝の方角から伝わって来るように思えたが、なおもよく耳をすませると、声や音ではなく、何かが直接翁の心に響いているようであった。  翁はよく判らぬままに、また少し滝のほうへ足を進めた。すると、心に響く妖しの声は、わずかずつ強まるのであった。  翁は考えた。  これは熊や狼たちが出す心の声と同じものらしいではないか。ほかの者はけものたちの心が出す声を聞けぬので、不用意にけものと行き会って食われてしまったりする。しかし自分はけものの心の声が聞けるので、そのようなことにはならなかった。おかげで無事に生きのびて来たわけだが、鳴る滝が人を食ったという話はついぞ聞いたことがなかった。ふつうの人々が行っても無事なのだから、自分だけが身に危いことが起るはずはないのではなかろうか。多分、けものが出す心の声と、鳴る滝のほうから聞える妖しの声とは、少し違ったものなのだろう。  翁はそんなように考えながら、しだいに強まる滝の音と妖しの声の中を、どんどん進んで行くのだった。  やがて道は谷あいにさしかかった。両側に緑濃い山がのしかかり、風がひんやりとして来た。足もとの石ころが濡《ぬ》れたような色にかわり、陽のあたらぬ場所の岩にはびっしりと苔《こけ》がついていた。  妖しの声はいっそう力強く翁の心に響いて来た。意味はよく判らなかったが、その声は何かを烈しく呪《のろ》っているように思えた。翁はたびたび気が臆《おく》して、何度も引き返そうと思ったが、そのたびに好奇心にはげまされ、そのうちに、どうせ間もなく死ぬ身なのだから、鳴る滝を見さえすれば、その場でばけものに食い殺されてもかまわないという気になって行った。  そう肚《はら》を据《す》えてみると、妖しの声はどうも翁一人を呪っているようにも思えなくなった。その烈しい呪いは、だれかれというようにきまった相手に向けられているのではなく、たとえば、明日はいいことがありますようにと祈るときのように、とらえどころのない、きまった向けさきのない心の様子に似ていた。  翁は油断せずに進んだが、遠くからひと声聞いただけで逃げだしていたときのような、わけのわからない怯《おび》えかたはしなくなっていた。 「やはり年の功だわい」  翁は滝のほうへ進みながら、ひとりごとを言いはじめた。 「年をとれば物事を落ちついて見ることができる。若いころあれほどおそれた鳴る滝の妖しの声も、近づいてよく耳を澄ませば、何もこのわしに向けられた呪いの声ではなかったではないか」  それでもまだ、翁のひとりごとは自分の心細さをうちけすためのものだったようだ。 「若い者をつれてくればよかったかな。いやいや、それはいかんぞ。わしは若い者たちにあがめられておる。人にはあがめられねばいけない。わしはずっと人にあがめられるよう心がけて来たのではないか。だから鳴る滝の妖しの声におびえて、ここへ近づかぬということも、一度だって人に言ったことはないのだ。いま、わしがこれしきのことにおびえていると人に知られれば、人はわしを軽んじよう。この鳴る滝へは、用さえあれば誰でも平気で近づいておるのだからな。石切りのわざを、のこらず若者たちに教えてしまった今になって、わしにそう言う弱味があったと知られたら、わしはただのおいぼれと思われてしまう」  翁はそう心をはげまし、腰の帯につけていた小さな斧《おの》を外して手に持つと、一歩一歩大地を踏みしめるように歩いた。  滝と谷川の水で冷えた風が、南側のあたたかい風を呼び込むのか、その道ではほかの場所より風が強く、たち並んだ巨木がざわざわと鳴っていた。  もう、啼《な》きかわす小鳥の声も聞えぬくらい、鳴る滝のとどろきが強くなっていた。 「あれが鳴る滝か」  次の角を曲ったとき、翁は思わずそう言って足をとめた。  突き当たりは高い岩の崖《がけ》になっていて、そのてっぺんから、水が太い柱のように翁のいる谷底へ流れ落ちていた。その水の勢いは、話に聞いたよりずっと烈しく、岩のてっぺんを離れた水の柱が、ふつうの滝のようにすぐ下の岩に触れて落ちることもなく、一度虚空へたくましくとび出してから、柳の枝をたらしたように、ゆるく曲って地へ落ちている。  滝壺《たきつぼ》は、長い年月水にえぐられて、おそろしく深くなっているように思えたが、こまかな飛沫《しぶき》が霧となって、滝の水丈《みずたけ》の半分ほどまでもを曇らせていた。 「なるほど行きどまりだわい」  翁は感心して眺めた。人々に追われたけものがここへ逃げこめば、もうどこへも逃げ道はないのである。人々はよくそのためにここへ来るのだ。  いっぽう妖しの声は、ますますはっきりと翁の心に響いていた。翁は滝壺の近くまで進んで行き、そこの大岩に腰をおろして、妖しの声が何と言っているのか聞きとろうとした。 「なんと、あれは天と地を呪っているようではないか」  翁はそうつぶやいた。たしかに、その妖しの声の呪いは大きすぎるほど大きい相手に向けられていた。 「いったい、どのような命が天と地を呪ったりするのだろうか」  翁には理解しがたいことであった。 「お前は誰だ。何のためにそのように呪うのだ」  翁は岩に腰をおろして問いかけた。はじめのうち答はなかったが、何度もくり返して翁の心の声が充分に強くなったとき、鳴る滝のあたりに満ち満ちていた妖しの声がぴたりとやんだ。 「お前は誰だ」  妖しの声がやんですぐ、とほうもなく大きな心の声が翁の心に響きわたった。それは耳に聞える鳴る滝の音よりもはるかに大きいようであった。  翁の心は痺《しび》れてしまった。斧をとり落し、岩に腰かけたまま、体中の力が萎《な》えてずるずると倒れかけた。 「待ってくれ、そんな大声で言われては死んでしまう」  翁は辛うじて心の中でそう叫んだ。 「弱い奴だな」  妖しの声はさげすむように、しかしそれでもだいぶかげんをした声で言った。 「誰だ。どこにいるのだ」 「岩にとじこめられてしまったのだ」 「どの岩に」 「ここだ」  妖しの声はそう言ったが、翁にはいっこう見当がつかなかった。 「わからぬぞ。滝の右か左か」 「知らぬ」 「滝がわからぬのか」 「わかるわけがない。岩の中にいるのだ」  翁は納得した。 「そうか。それでは無理もない。しかし、いつからお前はそこにいるのだ。わしがお前の呪い声を聞きはじめてから、もうずいぶんになるぞ」 「この岩がここに生まれたときからだ」  翁は驚いた。それでは何千年、いや何万年のことか見当もつかない。 「では天地のはじめからではないか」  すると妖しの声が嗤《わら》った。 「愚かなことを。俺《おれ》は以前このあたりに住んでおったのだ」 「するとこの滝の岩は、人が住むようになったあとで出来たものか」 「俺たちはここに住んでいた。何ひとつ不自由はなかった。そこへ或る日突然大地が揺れ動き、陽がかげり、そして大きな火の柱が至るところから噴きあがって、あらゆるものを熱くとけた岩で掩《おお》ったのだ」 「よく死なずに生きのびたな」 「みな死んだ」  声は哀しげだった。 「俺はちょうどそのとき霊を凝《こ》らしている最中だった。最初の火柱から流れたどろどろの岩につかまってとじこめられてしまったのだ」 「岩がとけるのか」 「そうだ。ここらあたりにはそのときの岩が冷えかたまっているはずだ」 「たしかに岩はたくさんある。しかし、どこの岩がお前をとじこめているのか、見当もつかぬぞ」 「なんとか探してくれ」  声はあわれみを乞《こ》うように言った。 「みんなが焼け死んで以来、誰の声も聞えなかった。俺は暗い岩の中でじっと待っていたのだ。そしてやっとお前の声が聞えた。助けてもらいたい。俺たちの世界がどうなったのか、是非知りたいのだ」 「ちょっと待て。方法を考えてみる」  翁は心の声をだすのをやめて考えはじめた。  ふしぎなことばかりであった。だいいちに、自分がそんなように心の声で喋《しやべ》れようとは、今まで一度も考えたことさえなかったのである。なぜ喋れるのだろう。なぜ今まで誰ともこういう心同士のお喋りをしたことがなかったのだろう。それに、岩が溶《と》けたと言う。岩は溶けるものなのだろうか。溶けて熱くなった岩に掩われたら、どんな人間でも死んでしまうのではなかろうか。だとしたら、どうやって生きのびたのだろう。  鳴る滝はずっと昔からここにあった。自分の若い頃から、いや、祖父やそのまた祖父のころから、滝はここで鳴っていたのだ。そんな大昔から、岩の中では食う物さえなかろうに、どうやって生き続けてこれたのだろうか。  翁はふと人々のことを思った。  岩の中にとじこめられていたふしぎな人間を連れ戻ったら、いったいなんと言うだろうか。岩の神だと思うかも知れない。石切りの翁が岩の神を連れて帰ったとなれば、石切りの翁はますます尊敬され、貴ばれるに違いない。 「おい、どうしたのだ」  妖しの声が心配そうに言った。 「俺をこのままにして逃げて行ってしまったのではないだろうな」  腕組みをしていた石切りの翁は、その腕をとき、滝に向って腰をのばした。 「ここにいるぞ。よし、わしはお前を岩から出してやろう」  すると妖しの声は深く沈んだ言い方になった。 「それは有難い。うまく外へ出られたら、何でもして恩を返そう。しかし、ここがうまく判るか」 「そのまま喋りつづけているがいい。わしの心に少しでも強く聞えるほうにお前はとじこめられているはずだ」 「おう、それは考えたな。たしかに俺が喋りつづければ居場所を探れよう」  妖しの声はいったんはずんだが、すぐにまた力を失った。 「だが厚い岩の中だぞ。お前に岩が破れるか」 「なんの。わしは人に知られた石切りの翁だ。場所さえ判れば何の雑作もあるものか」 「石切りの翁か。なるほどそれなら岩も破れよう。だが、いくら石切りの翁でも、一人でできるのか」 「一人がいい。人を呼んで来たところで、お前の声が聞えるのはわし一人だけだ。誰が岩の中の声を信じよう」 「あたりに人は住んでいるのか」 「遠い。ここは人の住む場所から遠くへだたっている」 「では食う物もなかろう」 「山には食べられる木の実がいくらでもある。欲しければ鳥もけものも自分で捕ろう」 「なんで岩を切る。どうして破るのだ」 「まず石を探す」 「そうか。このあたりに岩が切れる石があるのか」 「あるはずだ。来るみちみち、山のかたち、小石の色を見て来た。わしがよく使う、石切りの堅石《かたいし》があるはずだ。あとは根気だ」 「たのむぞ、石切りの翁」  翁は妖しの声と心で喋りながら、滝のあたりをあちこち歩きまわった。すると、滝の右側より左側のほうが、妖しの声がわずかに強く聞えるのが判った。 「この崖の岩のどこかだな。今すぐ探しあててやるぞ。もっと喋れ」  翁は苔の生えた崖にからんだつたかずらをたよりに、ゆっくりと登りはじめた。 「お前の名はなんという」 「名はない」 「おかしな奴だ。名前がないのか」 「俺たちにはそんなものは要らなかった。人は人、けものはけもの。ただそれだけだ」 「どうやって他人を見わけるのだ」 「石切りの翁はおかしなことを尋ねる」 「なぜだ」 「他人を見わけてどうするのだ。おのれの声は口から出る。他人の声は耳から入る。それでいいのではないのか」 「他人は数が多いだろう。おのれは一人、他人は大勢。かりに誰かがお前に話しかけて、相手が誰か判らなかったら困るだろう」 「困るかな」 「では逆に、お前が人に話しかけて、その人がお前を誰だか判らなかったら、お前は困るだろう」 「なぜ困るのだ。他人の声は風と同じだ。風が吹いて、どの風がつめたかったのか知りたいというのか。春風が吹いて、どの春風が来たのか判らねば困るのか」 「それは理屈だ。風と人は違う」 「どう違う。他人の声が風以上に何かをお前に伝えるのか」 「伝えるとも。他人にそしられれば悲しいし、ののしられれば腹が立つ。優しいことばはうれしいし、呪いのことばはおぞましい」 「冷たい風は辛いものだが、暖かい風は心もなごむ。温った風は嵐《あらし》が近く、乾いた風は日でりの証拠だ。吹く風以上に他人の声が何かを伝えてくれようとは、ついぞ思ったこともない」 「しかし、他人はいろいろな顔をしている」 「そうとも。同じ顔はひとつもない。うさぎときつねが違うように、人はみな顔が違う」 「だからそれぞれに名が要るのだ」 「顔が違う上にか。顔を憶《おぼ》え名を憶え、なんでそんな面倒なことをする」 「お前はどこかおかしいな。いくらこの岩が生れる前からの人間だろうと、そのころも人づき合いはあったろうに」 「俺には翁の言うことがよく判らない。まるで石切りの翁は他人の中に住んでいるようだ」 「なぜそう思う」 「他人を気にするからだ」 「いかにもわしは他人の中で暮している」 「やはりそうか。誰かにとらえられているのだな。ここを出してもらえたら、今度は俺がお前をたすけてやろう。お前をとらえている他人をやっつけてやる」  翁は崖の途中で笑いだした。 「お前はまるで子供のようだ。わからぬことを言うにも程がある」 「いや、そうではない。たとえばこの俺は、俺の世界に棲んでいる。俺の世界の中心にこの俺がいる。目で見、耳で聞き、心で感じる。みなそれは俺のものだ。俺のもので俺が感じるのだ。俺のほかは他人だ。他人は大勢でも一人でも他人だ。他人は俺ではない。他人は見せてくれぬ。他人は聞かせてくれぬ。他人は感じさせてくれぬ」 「ちょっと待て」  石切りの翁は崖の中ほどにぶらさがって叫んだ。 「どうだ。わしの声が今までより大きくはないか」 「さあどうかな。もっと喋ってみてくれ」  妖しの声に言われて翁は思いつくままを心の声にした。 「たしかにお前の言い分にも一理ある。他人のことばがいつもまことだとは限らぬわい。嘘《うそ》でないまでも、本心とは少し違うことを言うのが他人だ。しかし、こちらがまことを示せば、いつかはその他人も本当のことを言うようになるだろう。気を許せる友はいいものだぞ。たしかにいいものだ。でもそういう相手はなかなかおらぬ。一人二人はいたところで、しょせんこの世は他人だらけ。その中で生きてゆかねばならぬとは、お互い、ことではあるのだ」 「おう、さっきよりたしかに強く聞えるぞ。そうだ。翁は俺のすぐ前にいるようだ」 「よし」  翁は妖しの声に向ってなだめるように言った。 「心細かろうがしばらくそうして待っておれ。石を探し足場を組み、当座の食い物も集めて本腰を据えねばならんのだ」 「待つ」  妖しの声は力強く言った。 「翁よ、俺は待っているぞ」 「よしよし、その元気だ」  翁は崖をおり、まず堅石を探しに行った。     2  翁がその崖にとりついてから、もう何ヵ月たったろうか。カツン、カツンという音が、滝のとどろきにまじって聞えつづけていた。翁は長い経験によって、岩の目を巧みにたどり、根気よく、少しずつ少しずつ岩を割り崩《くず》して行った。  その間、翁は妖しの声と語りつづけていた。はためにはむっつりと黙りこんで石を打ちつづけるように見えたが、翁は倦《あ》きもせず心の中で妖しの声と語り合っていたのだ。  妖しの声の主は、とほうもなく遠い昔にそこへとじこめられたのだということが判った。  その頃、人々はまだ畑を作り種をまくことをしなかった。自然に生えた木の実や草の根、けもの、鳥、虫、魚をとって、気ままにくらしていた。山や崖にあいた穴に棲み、道具と言えばせいぜいが木の棒か、細かく割り欠いた石だけであった。  今のように木を組んで橋や家を建てるでもなく、もちろん鋼《かね》の道具もなければ、土を焼いて器《うつわ》を作ることさえもろくになかった。  だが、よく話を聞いて見ると、人々が道具というものにこだわりはじめたのは、そう久しいことではないようであった。人間は長い長いあいだ、その石の時代で充ち足りて暮していたらしいのだ。  石の時代が、今とくらべて未開で貧しいということはないようであった。翁は岩を打ちながらそのことを聞いて、むしろその石の時代に生まれたかったとさえ思った。  ろくな家もろくな道具もなかったかわり、人々はおのれの心を深くみつめ、心の中にあるふしぎな力を、ちょうどいま石切りの翁が堅石を使って岩を自在に削るように、たくみに使いこなしていたのだ。  はじめ翁はそのことをよく理解できなかった。 「お前はしきりにそのころのことをほめそやすが、道具がなければ家もたたぬし、このようにして石を削ることも叶《かな》うまい。畑がなければ食う物もあてにならぬし、何も作らずにどうしてその石の時代がゆたかだと言えるのだ」  妖しの声のほうも、翁の言い分がよく判らぬようであった。 「木を組んで家を作るのか。そんなはかないものに住んで、どこがうれしいのだ」 「自然にできた穴ぐらにいるほうがよほどはかなかろう。だいいちむさいではないか」 「おかしな翁だ。翁の仲間はみなそうか。目で見てたのしむのか。目で見るだけで」 「美しいものは美しいわい」 「はて、美しいと感じればよいのではないのか」 「美しいものを見るから美しいと感じるのだろうが」 「翁のくせに子供のようなことを言う。では聞くが、この世はすべて美しいか。どこを見ても、見ぐるしいものはないのか。地に堕ちた鳥の死骸《しがい》、けもののはらわた、腐った魚」 「それはある。いや、どちらかと言えば見ぐるしいものばかりだ。しかし、だからこそ美しいものを見たいとねがい、美しいところに毎日住みたいと思うのだ」 「だったらなぜ美しいと感じないのだ。目で見て美しくなければ美しくないのか。穴ぐらにいても、美しいと思えば美しいと感じるぞ」 「おのれを欺《だま》しても仕方あるまい」 「欺すか。なるほど、そういう考えか」  妖しの声のほうが、翁を理解するのは早そうであった。 「翁らは、他人の目で自分のものを見せられているのだな」 「なぜそんなように思う。わしはいつも自分のこの目で物を見ているのだぞ」 「いや、翁は何かにとらわれているぞ。よいか翁。翁を生かしているものはいったい何だと思っている」 「わしを生かしているものか。これはむずかしい問いだな。まず天地《あめつち》、そして親、まわりの人々のおかげもこうむっている」 「おろかなことを。それがとらわれている証拠ではないか」  妖しの声はじれったそうであった。 「おのれを生かすものはおのれの命だ。命が消えればおのれも消える。天地を言うのは小賢《こざか》しいことよ。命のもとへさかのぼりすぎよう。草、木、石、水、雲に風、日に月に星に光に闇《やみ》、それをひとまとめに天地というのだぞ。天地の中にはおのれの命も含まれておるわ」  妖しの声はおかしそうに笑った。 「しかも、その天地とて、おのれの命が消えれば消えてしまうではないか」 「天地が消える」 「おうとも。翁よ、しばし手を休めて目をつむるがいい」 「つむったぞ」 「何が見える」 「ばかな、何も見えるわけがなかろう」 「つまり天地は消えたわけだ」  翁は唸《うな》り、やり返そうとした。しかし、妖しの声は喋り続けた。 「美しいものも、おのれが目をとじればすぐに消える。消えても美しいと思うか」 「思う。目の裏に残っておるわ」 「さあ、それだ。見えずとも、目の裏に残って美しいと思うのだな」 「そうだ」 「そのあいだにわしがいたずらをして、美しいものを見苦しいものととりかえてしまおうか。見苦しいものを言ってみるがいい」 「糞」 「よし。糞ととりかえよう。とりかえたぞ。しかし翁は目をとじたままだ。目の前に、さっきと同じように美しいものがあると思い込んでいる。どうだ、翁は糞を前に美しいと感じているのだぞ」  翁は言いまかされてまた石を打ちはじめた。 「翁よ、人は心を育てて来た。鹿が角を育て、蛙《かえる》が水かきを身につけたようにな。その心をなぜもっと使わぬのだ。翁の世は間違っておるぞ。せっかくの心を使わずに、道具ばかりに頼っておる。美しいものが欲しければ、美しいと感じればよいではないか。畑のものを食わずとも、草の根や木の皮でも生きられる。それをうまいと感ずればよい。心とは、そのためにあるのだ。長い石の時代、人はみなそうやって生きて来た。だから道具を工夫することもなく、面倒な家を欲しがることもなかったのだ」 「だが、それで寒さ暑さはしのげるのか。真実ありのままではなく、自分の都合のいいように感じたところで、冬の寒さはしのげまい」 「しのげる」  妖しの声は言い切った。 「そのために、幼いときから、おのれの心を深くのぞいて修練を積むのだ」 「積んだら寒さを感じぬのか」 「はじめはやはり寒さにまける。しかしやがて、けものの皮を着て火のそばにいるのと同じになれる。そのようになったときのこの世の美しさ住みやすさを翁に教えてやりたいものだ」  妖しの声はしみじみと言った。  石切りの翁は妖しの声の主《ぬし》を助け出そうと、来る日も来る日も崖を掘りつづけた。季節はいつの間にか冬になり、雪が降りはじめたが、翁は鳴る滝を去らずに石を打っていた。  人々は翁がとうとう山歩きで命を落したと思い込んでしまった。この雪では、山の中で凍え死ぬしかなかった。  しかし、翁は元気であった。  崖に向いながら妖しの声に寒さをしのぐ方法を教わったのである。翁はおのれの心を深くのぞき込むことを憶え、目で見る外の世界と同じように、おのれの心の中もまた、はてしのないひろがりを持っていることを知ったのである。  翁は自分が硬い岩を打っていることさえ忘れた。大好きな祭りの太鼓を打っている気持になり、信じられぬほど若々しい力で妖しの声の主に近づいていた。 「判ったぞ。石の時代はすばらしかったのだな」  翁は心の底から言った。 「そうだ、人はみなおのれの世界をひとつずつ持って生れて来たのだ。死ねばこの世もなくなってしまう。それをわしは、わしが死ねばこの世にわしのむくろがひとつ残るだけというように感じて来た。それは他人の目で考えることなのだな」 「そうだ。俺も翁の心とこうして語り合って、だいたいのことは判って来たが、俺が岩にとじ込められたときで、石の時代はおわってしまったらしい。天が裂け、地は火を噴き、雨はとめどもなく降って洪水《こうずい》になった。俺たち石の時代の心のわざは、そのとほうもない天変地異で、おしつぶされてしまったのだ。一度この世のおわりが来たというわけだ。そこでは心のわざも何の役にも立たなかった。寒さは心のわざで防ぎうる以上の寒さとなり、火は心のわざで熱くないと感じている者の肌《はだ》を焼き尽してしまった。生き残った者は、心のわざが役立たなかったことを悲しみ、憎みさえしただろう。そして、心のわざよりは道具を作ることへ移ったのだ。心の時代がそこでおわり、手の時代がはじまったのだ」 「だが、心のわざも残せばよかった。道具の上に心のわざがあれば、人は今のようにこすからくならずにすんだろう。充ち足りることを知り、貧しさをゆたかさに変えただろう。だが今は貪《むさぼ》りすぎるようだ。畑の作物をもっとうまくと思い、家をもっと美しくと焦《あせ》る。どうだ、これから二人で心のわざをひろめようではないか」  翁は妖しの声とそんな相談をしていた。     3 「近づいたぞ」  妖しの声がそう叫んだのは、まる二年あとであった。 「もうすぐ出られるぞ」  翁の手が早くなった。もう崖の穴は深くえぐれていて、翁の体はその奥にかくれていた。何人もが鳴る滝のあたりへ来たが、遂に翁に気付かなかったわけである。  やがて翁は妖しの声そのものを、砕いた岩屑《がんせつ》の中からとりあげた。  それは片手にのるほどの大きさであった。 「こんな小さな中にいるのか」 「そうだ。早く出してくれ」 「よし、外へ出よう」  翁は穴を這《は》い出し、崖をおりて平らな地面に立った。 「よいか、割るぞ」  翁はそう言うと、用心深くその岩のかたまりを叩いた。岩が欠け、中からポロリと何かがころがり出た。  翁はワッと叫んでとびのいた。  なんとそれは目玉であった。 「こ、これがお前か」  あまりのことに翁は腰を抜かした。 「なま身であのとけた岩の中にとじこめられては、生きるすべもなかろう」 「ど、どうしたのだ」 「あのとき俺は霊を凝《こ》らしていた。石の時代の心のわざは、そこまで進んでいたのだ。霊を凝らせておれの体から脱けだし、自由自在にとびまわれるよう修練していたのだ」 「そ、その目玉が魂か」 「俺は目玉になろうとしたからこうなっただけだ。姿のないままのものもいたし、けものや鳥になったものもいた。もちろん、そういうことができる者は、ごくまれにしかいなかったがな」 「すると、お前の肉は滅んだのか」 「そうだ」  翁はやっと落ちついて来た。 「とにかくわしはお前を助けだした。わしは以前いた場所へ戻らねばならぬが、お前はこれからどうするのだ」 「翁と一緒に行こう。ほかにあてがあるはずもない」  目玉はふわりと宙に浮き、高く高く昇ってあたりを眺めた。 「やはりこうなってしまったか。これでは石の時代もおわったわけだ」  高いところから翁にそう言った。 「さて、わしは行くぞ」  翁は目玉に言い、歩きはじめた。目玉は低く舞いおりて来て、翁のあとからついて来た。 「石切りを教えた若者どもが待っておろう。帰ったらさぞかしびっくりすることだろうな」  翁はたのしそうに言った。 「人にどう思われるか、まだ気になると見えるな」 「それはそうだ。わしは人々の中で生きて来た。やはり人にはよく思われたい」 「それで、よく思われているのか」 「そうだ。石切りの翁はみなに敬まわれ、貴ばれている」 「しあわせか」 「まずまずというところだ」 「わからんなあ」  目玉はふしぎでたまらないらしかった。 「俺のころと、大してかわってはおらんぞ。いや、たしかに山のかたちや木の様子は違うようだが、美しくもなっていなければ、そう見苦しくもなっていない」 「そうかもしれんが、わしには判らん」 「翁よ。人の目で見ることをやめたらどうだ。翁はもう石の時代のやりかたを憶えたはずではないか。人が恋しければ、翁を好いている人があたりにたくさんいると思えばよいのに」  石の時代の心のわざは、まことにすばらしいものであった。目玉の言うとおり、翁が気の好い人々に囲まれていると思えば、本当にあたりに人が湧《わ》きだして、勝手に声をかけて来るのである。 「いずれそうする。しかし今は人の顔が見たい。本物の人の顔だ」 「つまらんことなのに」  それでも目玉はどこまでも翁に従って来た。  やがて翁は自分の住んでいた村に近付いた。人々は翁を見つけると、叫びはじめた。 「石切りの翁が化けて出たぞ」  人々は逃げ惑い、家に走り込んでしっかりと戸をしめた。 「何をうろたえておる。わしだわしだ」  翁は夢中で家々の戸を叩きまわったが、誰一人相手にしてくれようとはしなかった。  そうやって、翁が怯えた人々の間を歩きまわっていると、どこからか若者たちが手に手に棒を持ってあらわれて来た。 「この糞じじい、化けて出てまでみんなを困らそうと言うのか」  口々にそうののしった。 「待て、待ってくれ。みんなを困らすとは何事だ。わしはそんなにみんなを困らせた憶えはないぞ」 「何を言う。石切りのわざを鼻にかけて、威張りくさっていたろうが」 「そうだそうだ。俺たちに石切りを教えると言って、朝から晩までこき使ったではないか。あげくに打つやら叩くやら」 「それが修業というものだ。憎くてしたのではないぞ」 「何を言うこの化け物」  若者たちはいっせいに石を投げはじめた。しかしその石は翁の体よりはるか高いところに狙《ねら》いがつけられていた。  翁は上を見た。そこに目玉が浮いていた。 「あ、お前そんなところにいたのか。それではわしが化け物だと思われるわけではないか。行ってくれ、どこかへ行ってくれ」  すると目玉はふっと消えた。しかし、どこか近くにかくれたらしく、声が聞えて来た。 「俺がいたせいではないぞ。翁は好かれていなかったのだ」 「そんなはずはない。敬まわれていた。貴ばれていた」 「石切りのわざが敬まわれ、貴ばれただけだ。石切りのわざのない翁は、わからずやの業《ごう》つくばりにすぎぬのさ」 「嘘《うそ》だ」 「翁がずっとここにいれば、石を投げつけられるほどのこともなかったろう。しかし、長い間留守にした。人はみなそれぞれの心で動いている。翁が去れば石切りのわざを知っている若者たちが敬まわれる番だ。若者たちは翁が死んだと思い、勝手なことを言いはじめたのだろう。翁がいなくても自分たちは立派にやって行けるということを知らせたかったのだ。そのために、翁はだんだん悪く言われた。そして、ほかの者までもが、翁の威張った様子だけを強く感じてしまったのだ。ここの者は、みんなそうしたものだ。自分の目よりも人の目を信ずる。翁よ、ここを去るがいい。そして俺が言ったとおりにして見るがいい」  石は翁の体に向けられはじめた。 「出て行け、死にぞこない」 「化け者め」 「二度と来るな」  翁は一歩一歩後退した。村はずれまで追われ、とうとう背を向けて歩きだした。 「どうだ翁。人に好かれてはおるまいが」 「黙っていてくれ」  翁は呶鳴《どな》った。 「わしはわし一人で生きて行くしかないのか」 「老いたからな」 「若者は誰一人わしを敬まわぬのか」 「老いたからだ」 「あの者たちの心をとり戻せないのか」 「老いて間もなく死ぬからだ」 「わしはまだ仕事ができる。村にも、あの若者たちにも役に立つはずだ」 「役にはまだ立とうが、若者たちはもう翁を欲しくないのだ」 「なぜだ」 「自分たちの思うように石を切りたいからだろう。翁がいれば指図をされてしまう」 「いや、もう指図はせぬ」 「翁はせずとも、あの中へ戻れば立てられなければならぬのさ」 「もう仲間には戻れぬのか」 「そうだ。頭をさげて命乞いをし、元のようにさせてもらうか」 「まだそう出来るか」 「出来る。しかし、そうすれば今度は憐《あわ》れみを受けるぞ。敬まわれるかわりに憐れみを受けるのだ」 「嫌《いや》だ」 「そのはずだ。憐れみを受けるなら、いっそ憎しみを受けたほうがよかろう。心をのぞくすべのおかげで、一度触れただけで今の世の人の心は大方読めた。おたがいに、無用なほどかかわり合いたがるくせに、心は石の時代よりずっと小さくとざされている。心と心で語れるのは、翁くらいなものではないか。翁は石の時代の血をよみがえらせた、まれな人間なのだ」 「行こう」 「どこへ」 「どこへでも連れて行ってくれ、石の時代のように暮そう」 「よし。ではあの鳴る滝へ戻ろう」  目玉は翁の先に立って飛んだ。  やがて翁はまたあの鳴る滝のそばへやって来た。 「ああ、また戻って来てしまった」  滝の見える曲り角のところで翁は足をとめ、そうつぶやいた。轟々と滝の音が聞えていた。 「おや」  翁はふとあの崖に目をやって愕然《がくぜん》とした。穴がないのだ。目玉を助け出した、あの苦労して掘った穴が。 「おおい」  翁は目玉を呼びながら走った。崖の直下へ行ってふとあおいだが、やはり穴は消えてもとのままだった。足場もないし、掘り落した岩屑もなかった。 「目玉よ。石の時代の目玉よ」  翁は狂ったように心で叫び、口にもだして目玉を呼び求めた。しかし、答はなかった。  滝壺のあたりを走りまわった翁は、へなへなと力萎えてすわりこんだ。 「目玉よ。いったいお前はわしに何ということをしてくれたのだ。あれはつかの間の夢だったではないか。滝を眺めている内の、つかの間の夢だったでは……」  たしかに、それは翁がそぞろ歩きの足をのばした小半日の間のことでしかなかった。 「あの昔からわしに聞えていた妖しの声はどこへ行ったのだ」  妖しの声は消えていた。心をおびえさせるあの気配は、綺麗《きれい》に消えてしまっていた。 「なんというわるさをするのだ」  翁はため息をつき、立ちあがると、とぼとぼと歩きはじめた。  翁をとらえたものが何であったか、遂に判らなかった。しかし、鳴る滝に、石切りの翁ひとりにとほうもない悪意をいだいて、何十年も悪さをしかける機会をじっとうかがっていたものがあったのだけはたしかであった。  翁はその後|寡黙《かもく》になり、人の心を信じられぬまま、老いて死んだという。 [#改ページ]   罪なき男     1  それは堤防の上の道で、左は草の生えた斜面から広い河原に続き、右側はやはり斜面だが、コンクリートの壁のようになっていて、その下に堤防の上の道と平行して、もう一本の道が伸びていた。  上下に並んだ二本の道は、どちらも綺麗《きれい》に舗装されていて、車がゆっくりすれ違える広さであった。ただし、上の道は一方通行で、日曜日には車の乗り入れが禁じられ、サイクリング・コースになる。  井戸敏夫《いどとしお》が事故に会ったのは、その上の一方通行の道でだった。  間違いなく、井戸は道の河原の側の端を歩いていた。それならば、一方通行の道をやって来る車と向き合うわけであり、仮りにそういう配慮をしなくても、危険なコンクリートの斜面の下がまた車の往来の激しい道路という右の端を、わざわざえり好んで歩く人間は多くないはずであった。  とにかく、その道の左端なら、町の歩道を歩くよりかえって安全なはずであった。なぜならば、もし運転を誤った車が突っ込んで来ても、河原の土手へ踏み出せば、斜面をころげ落ちても草の上で、せいぜい服をよごす程度でおさまるのだ。  だが、事故はあり得ないような起りかたをする。そして、運転が未熟だとか、不注意だとかあとで言って見ても、それにまきこまれた者にとっては、一生とりかえしのつかない悲惨なことになってしまうのである。  二台の、ボデーの低い中型車がやって来るのを、井戸は遠くから認めていた。別にそう気にとめてもいなかったが、その二台が何かの用事で走っている車だとは感じなかった。道楽息子が遊びで走らせているように思い、事実そのとおりであった。  井戸は車の運転ができない。教習所へ通うひまも金もなかったし、運転を憶《おぼ》えたとしても乗る車がなかった。両親は死んでしまっていて、天涯《てんがい》孤独と言った身の上だが、もし両親が生きていたとしても、井戸に車を買い与えるほど裕福ではなかった。  弱者は常に強者の餌食《えじき》になる。金も命も健康も、強者は弱者から吸い取ってしまうのだ。その証拠に、裕福な親を持った道楽息子が二人、自分で働いて稼《かせ》いだのではない金で買った無用のマイカーで、ただ一人、生き抜くためにコツコツと働いていた井戸敏夫の夢と希望と健康を奪ってしまったのである。  事故直前の二台の動きがどうだったか、井戸はよく知らない。ただ、井戸の少し手前へ来るまで、その二台が曲芸のように、互いに追い越しては前へ出、追い越されてはまわりこんで前へ出、もつれ合って近づいて来たのであった。  当然のことながら、井戸は警戒して道ばたに立ちどまった。しかし、その警戒というのも、現代の都会の人間にとっては、ほとんど無意識に自分を守る習性のようなものであろう。どう考えても、それほどの大事に至るとは思えない状況なのである。  井戸は立ちどまって車を見ていた。二台が並んで通れるゆったりとした一方通行の道を、その二台が縦につながって彼の前を通り抜けようとしていたのだ。  ところが、井戸はギシッと金属がこすれる短い音を聞いた。とたんに井戸の寸前で、前の車が突然彼のほうへ向きを変えた。八十キロ近いスピードで、道路と三十五度くらいの角度で車首を川へ向けたのであった。  ハッ、と身がまえたとき、井戸は自分が青空を見ているのに気付いた。うるさいエンジンの音も聞えず、絶対的な静寂の中に浮いていたのだ。車が草の斜面を逆おとしにおりる、その奇妙に精悍《せいかん》な印象が、彼の感じた最後のものであった。     2  次に井戸敏夫が感じたのは、白いということであった。目の中に、どこまでも白いものが続いているようであった。  井戸の意識は、その白いものの正体を知ろうとしはじめた。白い……どこまでも白い、という信号が送られ、記憶が走査され、解答不能という解答が出て、探査活動が命令されたのである。  井戸のまぶたがこまかく痙攣《けいれん》するのを、誰《だれ》も見てはいなかった。井戸が完全に目をあけ、その白いものが天井の色であり、消毒液の匂《にお》いとそれをからませて、病院……土手の上の事故、という結論に達したときも、彼を見ている者は一人もいなかった。  ひどい怪我《けが》らしかった。頭には、少しゆるんだ包帯が巻いてあり、左脚にギブスがはめられていた。  井戸は目を動かしてあたりの様子を見た。ごく狭い病室で、どうやら自分一人のようだと思った。深呼吸をしてみると、左の胸のあたりに鈍い痛みがあった。体が汗ばんでいるようで、むず痒《がゆ》かった。 「俺《おれ》は井戸敏夫。二十五歳。ミシンのセールスマン」  井戸は口に出して言うように、ゆっくり頭の中で自分をたしかめた。頭を打ったようだが、脳には異常がないように思えた。  次に井戸は上体を少しひねり、頭を動かして見た。首も動く。手は……。手も動く。かなりやられたらしいが、そうひどくもなさそうであった。  だが、なにかおかしなところがあった。  いったいなんだろう……。井戸は考えはじめたが、その違和感のようなものは、なぜか原因がよく掴《つか》めなかった。  井戸は頭の位置を高くしようと、体を少しずりあげた。すると、胸もとの毛布がずれて、ひんやりとした空気がしのび込んで来た。  とたんに、井戸は目を剥《む》いた。なんと、窓の外には雪がちらついているではないか。  井戸の心の中で悲鳴があがった。土手の上を歩いていたのは、夏のはじめであった。それが今は窓の外に雪。 「いったい……」  井戸は唸《うな》った。不安が一度に湧《わ》きだし、彼をおしつつんだ。今は何月の何日だ。俺がやられたのは……。井戸は懸命に喪失した時間を知ろうとした。しかし、窓の外の小雪以外に手がかりはなかった。  夏のはじめだから、七、八、九、十、十一……。雪を見るまでに五ヵ月。いや、十一月に降ることはまれだから、六ヵ月か。  しかし、雪は二月にも降る。次の年ではないか。東京では三月の雪のほうが多いくらいだ。とすると八ヵ月から九ヵ月……。  まさか、九ヵ月も睡《ねむ》っていたなんて。  井戸ははね起きてドアの外へとびだしたい気分だった。  待てよ、ここが東京だとは限らないぞ。そう思い、自分をしずめた。もっと早く雪の降る地方へ移されているのではないだろうか。それならまだたったの五ヵ月くらいだ。たったの……。  最低をとらえても五という数が出て来てしまうことに、井戸は怯《おび》えた。怯えは更に不安を大きくした。  かりに次の年の二月なら八ヵ月だが、もうあとひとまわり余計だったら……。二十ヵ月になってしまう。まるまる一年と夏から冬までの時間。……いや、そうなれば二年かも知れないし、三年かもしれない。  そのとき廊下に足音が聞え、ドアのあく気配がした。  井戸は唾《つば》をのんだ。  ドアがあいて看護婦の白い姿が見えた。 「いまいつです……」  井戸が叫ぶように言うと、看護婦はキャッと言って逃げだしてしまった。     3  ドアの外に人の気配が溢《あふ》れている。 「誰か来てくれ。なぜ誰もはいってこないんだ」井戸はさっきから声の嗄《しわが》れるほどベッドの上で叫んでいた。  しかし、ドアの外の廊下では何やら怯えたようなひそひそ声がするばかりで、誰もこたえてこようとはしなかった。 「どうなってるんだ。ここは病院だろう。病院じゃないか。俺は怪我をしているんだ。入院患者じゃないか。ええ、そうなんだろう。俺は入院患者なんだろう。それとも、ここは病院じゃないのか。なぜ外にかたまっているんだ。俺はもしかしたら、伝染病なのか。それならそうと、はっきりいってくれ」  しばらくそうやって呶鳴《どな》っていると、やがて廊下がざわめき、何人かの新しい足音が聞えた。 「誰だ。たすけてくれ。俺は気が狂いそうなんだよ。いったい俺はどのくらい睡っていたのだ。四ヵ月か五ヵ月か。それとも八ヵ月近いのか」  医者らしい白衣を着た男たちが、おずおずと狭い病室へ入ってきた。医者はどれももっともらしい顔つきであったが、一様にさっきの看護婦同様、妙に怯えた表情をうかべていた。 「先生ですね。お医者さんですね。僕はどうなっているんです。交通事故にあったことは憶えています。それから、長い昏睡状態にあったらしいことも……」  先頭の医者が、うしろの医者たちに言った。まるで井戸を無視した態度であった。 「意識が戻ったらしいですな。患者は少し興奮しているようです」  井戸はたまりかねてまた叫びだした。 「そんなことはひと目見ればわかるじゃないか。それより僕の質問に答えてくれ。どのくらい睡《ねむ》っていたのだ。伝染病ではないのか」  先頭の医者は、用心深い態度で井戸に近寄ってきた。まるで井戸が兇暴な精神病患者であるような具合であった。  それでも井戸の心をいくらかはなごませてくれた。少なくともひとりの医者が、彼を患者として扱おうとしているのだから。 「左手を出して」  医者は冷たい声で言い、拇指《おやゆび》と人差指でそっと井戸の手首をつまんだ。井戸は不快になった。自分がその医者から、ひどくけがらわしく思われているのを直感したのであった。  しかし井戸はその不快感に耐えた。 「頭をやられたのですね。だから睡ってしまったのだ。そうでしょう」  言ったあとで井戸はすぐ不快な予感をもった。案の定、医者はもののみごとに井戸のことばを無視した。なぜそんな予感をもったのかよくわからなかったが、たぶん廊下の雰囲気《ふんいき》や入ってきた医者の態度が、彼をひどく毛嫌《けぎら》いし、遠ざけているようだったからであろう。  人は、自分が周囲から嫌われることに敏感である。それは単に、ひがみとか言った感情ではなく、遠い原始の時代にさかのぼれば、自己保存の本能につながっていると言えよう。人間は、嫌われれば襲われるという明快な図式を、その過去に持っていたはずなのだ。井戸は平凡な若者であった。将来にバラ色の夢を見ることもあったが、日常の多くは人の顔色を窺《うかが》ってすごしていた。それはとりたてて彼の欠点ではなく、弱者、そして弱者である大多数の現代人が、多かれ少なかれ身につけている、共通の生活技術のひとつである。  だが、このように、少数とは言え病床の周囲がみな井戸に対して嫌悪《けんお》の情を示すということは、異常なことであった。井戸もそう判断し、原因を知ろうと努めた。が、手がかりはすぐにはつかめなかった。  どうやら伝染病ではないらしく、脈に触れた医者も、手をすぐ消毒しようとはしなかった。  医者たちが帰ったあと、井戸は夜になっても、ひとりぼっちで寝かされていた。     4  ふたつの大きな疑問が残った。  ひとつは、井戸がはじめに抱いた、彼の昏睡《こんすい》の期間である。  もうひとつは、なぜ自分がそんなに嫌われるかということである。  そして、ギブスが外れ、頭の厚い包帯がとれたあと、外を歩きまわれるようになって、やっと第一の疑問がとけた。  腹の立つほど簡単なことであった。その大きな疑問に、たった一枚の新聞が答えてくれたのであった。その新聞の日付によれば、井戸は約八ヵ月の間、睡っていたことになる。  誰かがベッドへ一枚の新聞を運んでくれればよかったのだ。そうすれば、あの不安の期間をもう少し楽にすごせたはずである。  しかし、第二の疑問は依然として晴れなかった。井戸は自分がその病院のすべての人に嫌われさげすまれ、遠ざけられているのを知った。  新聞でさえ、たまたま外に出してあった屑籠《くずかご》の中から拾い出したのである。  井戸は、自分の病室から裏庭へ出る短い廊下の通行をゆるされているだけで、そのほかのところへ出入りすることは、厳しく禁じられていた。  それは、何も病院側が定めた掟《おきて》ではなかった。病院に出入りするすべての人が、井戸の顔かたちをよく知っており、たとえば中央の薬局のあたりや、その前の待合室の辺へ出て行ったとすると、とたんに、 「行け。こんな所へ来ちゃいかん」  と叱声《しつせい》がとぶのである。さからおうが反論しようが無駄なことであった。井戸の言葉は野良猫《のらねこ》が啼《な》きつくように、はじめから無視され、意味すら理解しようとはされなかった。  それでも井戸は患者であり、彼自身も自分の健康の回復を待たねばならなかった。その為に、井戸は周囲のそんな態度に耐え、許された行動半径で甘んじていたのだ。  そんな或る日、彼の病室へ大勢の医者や看護婦を引きつれて、院長がやって来た。 「君はもう退院してよろしい」  院長はそう言った。 「今日の午後、退院しなさい」  はじめて口らしい口をきいてくれたのが、その院長であった。 「有難うございます」  井戸は頭をさげた。左の側頭部に傷を負い、そこのところに肉の色が露出していた。 「ずいぶん長い間お世話になったらしいのですが、お支払いなどは……」  院長はうるさそうに首を振った。 「そういうことは気にせんでいい。みな然《しか》るべくかたがついている。それより、午後になったら必ず退院するように」  とりつく島もない言い方になっていた。要するに、追いだしに来たのであった。  井戸は言われたとおり、その日の午後になると、事故のとき着ていた合《あい》の背広とワイシャツを着て、まだ寒い風が吹く町へ出た。それも裏門から……。  場所は、あの土手からそう遠くないところであった。そして、裏門を出るとき、遠くに離れて及び腰になったカメラマンたちが、フラッシュを何度か光らせた。井戸がわけを聞こうとそのほうへ近寄ると、カメラマンたちはさっと逃げ散ってしまった。  仕方なく、井戸は駅のあるほうへ、探し探し歩いた。一度通りがかった人に尋ねようとしたが、病院の中同様、一面識もないその人物が、 「しっ……」  と犬を追うように井戸を追い払い、横道へ逃げ込んでしまった。  どうやら自分は世間中に顔を知られてしまったらしい……。井戸はそう思い、そのあと人に道を尋ねようとはしなかった。  人々に顔を知られた理由は、おぼろげながら理解できた。裏口へ新聞社のカメラマンらしい男たちが集っていたからだ。自分が睡っている間に、なぜか新聞やテレビなどが、くわしく報道したのであろう。  だが、それにしても、あまりにも多くの人々が井戸のことをよく知っていた。  私鉄の駅へやっと辿《たど》りついて、事故のとき持っていた金で切符を買おうと販売機の前へ立つと、若い駅員が二人とんで来て、 「ダメダメ。あっちへ行け」  と構外へ押しだされてしまった。 「なぜダメなんだ。俺には電車に乗る権利もないのか」  井戸は喚《わめ》いた。 「あんなこと言ってやがら」  若い駅員は顔を見合わせて笑った。 「どうしてなんだ、言えっ」  すると駅員はくるりと背を見せ、 「井戸のくせしやがって」  と吐きすてるように言った。     5  井戸の悲惨な放浪がはじまった。  誰も彼も、井戸をうけいれようとはせず、商人も彼に物を売ることを拒否した。硬貨のある間は、それでも餓《う》えはしのげた。自動販売機だけは彼の要求にこたえてくれたのだ。  だが、硬貨はすぐなくなった。町で紙幣をくずそうにも、相手になってくれる者はいない。井戸は仕方なく、記憶をたよりに紙幣を硬貨に替えてくれる、自動両替機のある駅まで歩いて行った。そういう駅の人ごみでは、一般の道路と同様、すっとんで来る駅員もなく、なんとか硬貨を確保したが、通りすがる人々が、一様におぞましげな顔で身をよけるのを見ると、なさけなくてつい涙が出てしまうのであった。  自分の住んでいたアパートへも、もちろん行って見たが、そのあたりにおける井戸の嫌われようは、ことさらすさまじかった。  戻って来て住みつかれたら大変とばかり、大の男たちが声をかけ合って、長い棒で突き戻されたのである。 「二度と来たら承知しねえぞ」  以前よく飯を食いに行った中華そば屋のおやじが先頭になって、とぼとぼと去って行く井戸の背中へ、そんな罵声《ばせい》を浴びせるのであった。  井戸は直感していた。  世間はなんとかして自分を隔離したがっているのだ。だから、うっかり法に触れることをすれば、それを口実に警察|沙汰《ざた》にされてしまうに違いない。したがって、誰かをつかまえて強引に自分が疎外され、差別される理由を聞きだすことはあきらめねばならなかった。  必然的に乞食《こじき》になった。  しかし、食を乞うのが乞食だとすれば、井戸はそれ以下の存在であった。こそこそと、盗むように盛り場の残飯をあさり歩き、すぐに追われて次の町へ移った。その上、彼は本物の乞食や浮浪者たちからさえ、差別され、追われた。  しかし、残飯あさりの収穫もあった。  雨にうたれてボロボロになった古新聞の束をみつけ、自分が何かの特異体質者であることを知ったのである。  偶然の事故が、井戸自身も気づかなかった、稀有《けう》の体質を世間に知らせたのであった。しかし、残念なことに、連日書きたてたはずの、事故直後の新聞は、もうそんな棄てられた古新聞の束にもない時間が経過していた。  井戸体質者。井戸人間。  新聞にそう書くだけで、世間はもうすべてを理解するまでになっているのだ。  徳島《とくしま》に新たな井戸人間か。  南米で井戸体質者を発見。  ……そういう見出しがときどき目についたが、その体質に関する解説は、いっさい見当たらなかった。  井戸は、そういう自分の記事だけでなく、別な記事にも関心を持った。それは、彼が事故にあったすぐあとでマスコミに登場して来た、ジョージ・愛堂《あいどう》という人物のことであった。  愛堂は米人と日本婦人の間に生まれた混血児で、はじめ禅の道に入り、大悟して新しい人の道を説きはじめたのだという。  彼はその布教に当たり、数々の奇蹟《きせき》を演じているらしい。不治の病いにおかされた者が、近代医学の綿密な調査にもかかわらず、奇蹟としか言いようのない方法で、瞬時に完治してしまったというのだ。しかもそれは、一例や二例ではなく、噂《うわさ》を聞いて集るすべての病人に、等しく授けられる恵みだそうなのである。  新聞は、ジョージ・愛堂を本物の超能力者、好ましい新人類、世界を導く新しい聖者として扱っていた。  愛堂は万人に愛され敬まわれているらしい。井戸はそう思うと、ふとねたましくなったが、この得体の知れぬ窮状から救ってくれるかも知れないと、人々の喜捨で建てられた、愛堂のすまいへ行ってみることにした。     6  それはもう、おはなしにならない悲惨な徒歩旅行であった。  行くさきざきで追い払われ、野宿すら思うにまかせぬ空腹の旅であった。井戸は餓えで痩《や》せほそり、必死に歩きつづけた。  生きるめあては、その愛堂という聖者一人になった。聖者愛堂に会うまでは、死ぬことさえできない気持になっていた。  そして、半死半生になって着いた。  聖者愛堂のすまいとだけ読んでやって来たが、それはまさしく宮殿のひとつであった。その壮麗な建物を遠望した井戸は、思わず涙ぐんだ。あそこに聖者がいる。俺を救ってくれる……。  井戸は夕陽を浴びた宮殿の丘に、よろよろと這い登って行った。  しかし……。  やっとたどりついた門の前で、井戸は宮殿に奉仕する人々の一群に発見されてしまった。 「井戸だア……」  甲高い叫びが至るところであがった。 「井戸が聖者をけがしに来たぞ……」  それは、どんな警報よりも素早い反応を人々の間にまき起した。井戸は蹴《け》とばされ、石を投げられ、丘から追放されてしまった。  井戸は泣いた。聖者なら会ってもくれようし、救ってもくれよう。しかし、そのまわりを人々が十重二十重《とえはたえ》にとりまいて、聖者の姿をかくしてしまっている。 「なぜそんな宮殿みたいなところにいるんだ」  井戸は遠くから叫んだ。 「聖者なら、俺たち弱者の間をなぜ歩きまわってくれない」  叫びはむなしく風に消えた。  夜になって、井戸は宮殿の裏側へ近づき、苦労して高い塀《へい》の中へしのび込んだ。見つからぬよう虫のように地を這って探しまわっていると、ポーチのようなところに、すらりと背の高い影が動いた。  聖者だ……。  井戸は直感した。噂どおり、神々しく、気高い雰囲気を漂わせていたのである。  体力のおとろえ切った井戸が、自分でも驚くほどの勢いでその影に駆け寄った。 「聖者さま。愛堂さま。わたしは井戸です。この井戸を、おすくいください」  井戸はひれ伏して言った。  愛堂は、井戸が駆け寄ったとき、明らかに彼を見ていた。しかし、救いを求めはじめると、まるで聞えなかったかのように、ゆっくりと歩きはじめた。 「聖者さま。どうぞおたすけください。わたしは何もしていないのです。ただ、何かに生まれていただけです。それが罪なのでしょうか。罪ならおゆるしください」  井戸は必死に叫んだ。追ってはひれ伏し、ひれ伏しては追った。  しかし、やがて井戸は愕然とさせられた。素知らぬ顔で歩く愛堂の足は、なんと人々が集っているほうへ向っていたのだ。  このままでは、また見つかって追いだされる。そう思い、愛堂の着ている、長く白い裳裾《もすそ》にとりすがって、最後の願いを叫ぼうとした。  そのとき、井戸の声を聞きつけて、大勢の男たちが走り出て来た。 「あっ、井戸だ」 「井戸だぞ……」 「井戸が聖者のすぐそばへ……」  悲鳴をあげるように、口々にそう叫ぶと、どっと押し寄せて井戸をとりおさえ、一気にかつぎあげて、宮殿の門から丘の下まで運んでいった。 「こん畜生、二度とあんな真似をしたらぶち殺すぞ」  男たちは井戸を土の上へ抛《ほう》り出してそう喚いた。中で一人落ちついた男が、 「そうだ。これは不法侵入じゃないか。警察へ連絡しよう」  と言いだした。すぐに二、三人が駆け去ると、とりかこんだ男たちの間に隙《すき》が生れた。井戸は最後の気力をふりしぼり、闇《やみ》にまぎれてその場からのがれた。     7  井戸がその後どうなったか、誰も知らない。  愛堂の聖域を犯したというので、マスコミは井戸のことをまた大々的にとりあげ、警察も、たかが不法侵入程度のことに、異例の大捜査網をしいて井戸を追った。  しかし、井戸のその後の消息は、杳《よう》としてつかめなかった。  行方が知れないと判ると、人々は急に井戸を恐れはじめた。どこそこに井戸が現われたというデマが乱れとび、そのたびにマスコミが大騒ぎを演じた。  そしていつしか数十年がすぎた。  いたずらか、物好きか、誰かが或る山の中を井戸|終焉《しゆうえん》の地だと言いだして、そこに小さな石のしるしをたてた。すると、そこを見に、なんということなく人々が集りはじめ、とうとう小さな石のしるしが神体にされて、ひとつの神社が建ってしまった。  しかし、それも一時のブームにすぎず、やがて人の訪れることもたえ、神官も去って社《やしろ》は朽ちて行った。  聖者愛堂は、奇蹟的な長寿を保って、その社が朽ちはてたずっとあとも、世界の人々の魂を導いている。  人々はいまだに愛堂を愛し敬い、あれこそ新人類の姿だと信じているようであった。 [#改ページ]   妙穴寺  四国|西国島々《さいこくしまじま》までも、都々逸《どどいつ》ぁ恋路《こいじ》の橋渡しなどと申しまして、どうもこの都々逸なんてえのには大変結構な文句が多うございます。  三千世界の編集者を殺し、主《ぬし》と朝寝がしてみたい、なんて色っぽいのがよくございますが、これがまた唄《うた》いようによってはどうにでもなるようで。  三千世界の編集者を殺してみたが、やっぱり原稿は取りに来る、って……世の中はままならないものでございますな。こうなりますってえと、結局のところ人間というものはやはり真面目《まじめ》にコツコツと働いていたほうがよろしいようで。  このお話に出て参ります鈴木源吉《すずきげんきち》と言う老人も、戦前からの古いブリキ職人でございまして、若い頃はリヤカーを引っ張って鋳《い》かけ直しをして歩いたこともあるという、まことにマメで律儀《りちぎ》な働き者でございましたが、かと言って働き者なら誰《だれ》しも末はお金持になるかというとそうでもない。そこのところがまた、世の中のふしぎなところでございまして、近頃《ちかごろ》は身の上相談の先生のところへなども、おかしな人が駆け込んで来たりする。 女「先生、うちの子をなんとかしていただけませんでしょうか、このままでは先が思いやられて」 先「ご心配ですな。それでお子さんはどういう……怠け者で遊び歩いてばかりいるとか」 女「いいえ」 先「仕事をしないとか」 女「いいえ」 先「女狂い」 女「とんでもございません。そんなことをしてくれるくらいなら心配はいたしません。うちの子と来たら、朝早く会社に出かけて夢中で働いて、帰りだって残業ばかりしていつも九時十時なんです」 先「それは結構な」 女「何が結構なものですか。ほんとにもう悪いところばかり父親に似て、うちの人は三十年間真面目に働いたばっかりに、いまだにお風呂もないアパートぐらし……(泣く)そういう悪いお手本を目の前に見ているくせに、麻雀《マージヤン》ひとつ憶《おぼ》えるわけでもなければ、競馬、競輪に行くでもなし、ゴルフ、スキーに釣り、女、なにひとつ遊びらしい遊びに手をつけてはくれないんです。こんなことではテレビの司会者になんかとうていなれるわけがない……」  ややこしい世の中になったものでして。ま、このブリキ屋の鈴木源吉さんもご多分に洩《も》れませんで、戦災をまぬがれた古い小さな家で、いまだに借家ずまい。おかみさんはとうになくなりまして、静子《しずこ》さんという一人娘と暮しておりましたが、よくしたものでこの娘さんが評判の孝行娘。あたしが嫁に行ったらお父さんが一人になってしまうと言って、降るような縁談をことわりつづけておりましたが、そうなればやはり神も仏も放って置くわけがございませんで、似たような商売ですが、近くに山本《やまもと》鍍金《メツキ》工場というのがあって、そこの長男がぞっこん惚《ほ》れ込んでとうとうそこの工場の若奥様ということになった。  と言えば大変な玉の輿《こし》のようですが、実を言うとそんな大した工場じゃありはしない。北、足立《あだち》、葛飾《かつしか》、江戸川と言えば大きな会社の下請けの本場みたいなところで、お静さんが嫁に行った山本鍍金だって、時計バンドとかガスライターだとかの仕事をもらってなんとかやっている小さな町工場でございます。  それでもまあ、ブリキ屋の源さんにしてみれば玉の輿には違いないんで、これでもう一人娘の行末も大丈夫と、十年一日のようなブリキ職を続けておりました。  家が近いものですから、娘のお静さんも毎日のように一人暮しの源さんのところへ顔をだして面倒を見ている。ご亭主のほうもお静さんに首を縦に振らせたくらいだから、若いがなかなかよくできた男で、これも何かというと源さんのところへやって来て、いろいろ仕事の相談などをいたします。  今日もぶらりとやって来て源さんと世間ばなしなどしておりますと、煙草《たばこ》を咥《くわ》えた源さんが、カチリと古ぼけたライターで火をつけた。それを見て、山本|一郎《いちろう》が目を丸くいたしました。山本一郎というのはお静さんのご亭主の名前。どうも定期券の見本みたいな名前で。 山「お父さん、そのライターはどうしたんです」 源「これか。ああ、これは俺が先《せん》から持ってる奴だ」 山「かわってますね。ちょっと拝見……」  受取って見ますてえとこれが大変な代物《しろもの》。まるっきりの新製品なんで。 山「おとうさん。これどこで手に入れたんです」 源「どこって……先から持ってるのさ」 山「だってこれはまるで新しい奴じゃないですか。そりゃ、外っかわは随分古くなっちゃってるみたいだけど、こんなのはまだ売り出しちゃいないはずですよ」 源「そんなことはねえだろう。そうか、お前さんはまだ若いからきっと知らねえんだろうが、これはお前、昭和八年ごろのもんだ」 山「まさか」 源「まさかったってしょうがねえ。俺は昔っからこいつを持ってた。もっとも昔は入れるガスなんかありゃしねえ。だからずうっとほっぽっといたんだが、こないだ思いついて引っぱり出し、お前さんとこの親会社が売ってるボンベを突っ込んで見たら、うまく入るじゃねえか。火がつくようになったからこうして使ってるのさ」 山「おかしいなあ」 源「気に入ったんなら、お前さんにそれをやるよ」 山「そうですか。それじゃ、新しいのをさしあげますから」  てんで、これを山本一郎が持ち帰って調べますってえと、なんとどこからどこまで新機構。おどろいたのなんのって。  それはそうでございまして、ガスライターなんてえのは、あっちこっちに外国の特許が使われている。それを使わなければ作れないし、使えばその分お銭《あし》を払わなければならない。これが自分たちの発明したものなら、その分余計に儲《もう》かるという、大変な金の卵でございます。  山本一郎は源さんのライターを持って親会社のアルマン工業へすっとんで行った。アルマン工業がそれを見て蒼《あお》くなっちゃった。 ○「これは大変だよ、きみ。ウチがこれから開発しようとしているメカニズムが全部完成しちゃってる。こんなことをされたらウチの会社の立つ瀬がない」 山「そうでしょう。あたしもびっくりしたんです。いえね、うちの義理のおやじさんてのはブリキ屋でしてね。器用だからこういうことは得意なんですよ。でも、欲のない人だからきっと全部あたしの手柄にさせてくれようってんで……。でも、あたしも親の代からずっとおたくの会社のお世話になっています。こういう発明をしたからといって、いまさら親子の間柄をさかさまにするような下司《げす》なことはしたくありません。ひとつこれはそっくりさしあげますので、おたくの会社の特許ということにして、そのかわり、あのおやじさんに相応のことをしてやっていただきたいんですが」  欲のない人はいるもので、さすがお静さんの亭主になるだけあって、山本一郎は綺麗《きれい》にそのライターをアルマン工業に渡してしまいましたが、よろこんだのはアルマンの重役たち。なんとかこのお礼をしなければと、高級車をつらねて源さんの家へ押しかけた。  細い道の両側に似たような家が並んでいて、源さんの家はそのまん中あたり。道路のわきのU字溝に厚い手づくりのドブ板がかませてあって、間口二間に四枚のガラス戸。腰板の上が四つに仕切られていて、下から三つが曇りガラスで一番上が透きガラス。間口の向って左っかわにトタンの袖看板《そでかんばん》が突きだしていて、白地に丸ゴシックの黒ペンキで、〈ブリキ鈴木〉と書いてある。ドブ板を踏んでガラス戸をあけるには、戸二枚分の幅で横に寝かせてある大谷石《おおやいし》の上へ足をのっけなきゃならない。ガラガラッとあけると、入口が三尺ほどの三和土《たたき》で、ここにも黄色っぽい大谷石が置いてある。隅っこのほうに古い自転車が、後ろのタイヤを三和土へおろし、前半分を板の間にのっけて置いてある。板の間へあげたタイヤの下は古新聞が敷いてあって、そのわきにボッテリした雑巾《ぞうきん》が、まるで靴拭いかなにかのように、いらっしゃいませと言う感じできちんと置いてある。板の間は六畳ほどの広さで、いつもは源さんがそこで仕事をしている。突当りに障子が二枚。奥が四畳半で、左っかわが押入れの襖《ふすま》。長火鉢《ながひばち》があって茶だんすがあって、長火鉢を前に押入れの襖に向って坐《すわ》ると、背中につくりつけの仏壇をしょうことになる。その部屋の突当りがまた障子で、あければ台所。流しは一段下にあって、手前は半坪ほどの板の間で、床はあげ蓋《ぶた》になっているから踏むとゴトゴト音がする。左っかわは便所の階段。階段は表の通りへ向けてあがるようになっていて、二階は六畳と四畳半に物干し台。物干し台には盆栽がずらり。  まあどこもここも、拭《ふ》いて拭いて拭きこんで黒光りがしている。押入れの中だってきちんとかたづいていて、古新聞だって角がピンととがったままきちんと積んであって、まるで箱を置いたよう。長火鉢だって、鉄瓶《てつびん》、火箸《ひばし》、灰ならし、どれひとつとりあげても、これが高いというものはありはしないが、世に言う長屋式小笠原流の作法どおりに、ピシッとあるべきところに納まって一分の隙《すき》もありはしない。  そういう結構なおやしきへ、アルマンのおえらがたがぞろぞろっと乗り込んで、 重「このたびは有難うございます」  てんで両手をついた。だが源さんはふんぞり返るような人柄じゃない。まあお手をおあげなすってとへりくだります。 源「そんなことでお役に立てるんでしたら、あのライターはよろこんで使っていただきましょう。それに、あたしもこんな年ですので、お銭《あし》なんぞいくらいただいたって使い道なんぞありはしません。できることなら、娘夫婦がしあわせに暮せますよう、行末長く仕事をやって可愛がっておくんなさい」  まあ今どきこんな人がいたかと思うよう。アルマンのおえらがたもすっかり感心してしまいまして、下請けの山本鍍金工場をもう、それは大切にいたします。 源「ああ、俺もこれでやっと花が咲いたというものだなあ」  源さんも楽隠居ということで、それもこれもみんなアルマンのガスライターのおかげと、小づかいさえあればアルマンのガスライターを買ってポケットへ幾つも入れ、会う人ごとにあげるのが道楽になってしまいました。 ○「こんちは」 源「ああ、酒屋さんかい。今日はなんにも用はなかったなあ」 ○「じゃ、また……」 源「あ、ちょっとお待ちよ。いつも精が出るね。近頃の商人はご用聞きなんかしなくなってしまったが、あんたの店は別だ。そうでなくちゃいけないよ。まあライターでも持って行って一服しなさいよ」 ○「有難うございます」 △「郵便」 源「ああ郵便屋さん、いつもご苦労さん。ライターをあげよう」 ×「こんにちは」 源「おや、赤ちゃん大きくなりましたね。レロレロレロ、バー。ライターをあげよう」  赤ん坊が煙草を吸うわけはない。  そういうわけで、ブリキ屋の源さんがライターの源さんになっちゃった。でも、根がはたらき者ですから、楽隠居の身が退屈でしょうがない。と言って娘夫婦の気持も判りますから、いまさらブリキの仕事にも戻れない。しようがないから、あっちこっち家の中の手入れをしては時間を潰《つぶ》しておりましたが、或る日のこと、台所のあげ蓋の下を掃除しようと思って糠味噌《ぬかみそ》の樽《たる》やら炭の箱やらをどかして下へおりたとたん、どこがどうなっていたのか、足もとがいきなりズルズルっと崩《くず》れて、あっという間に穴の中へおっこってしまった。 源「おおいてえ、畜生。なんだこれは、危ねえな。ははあ、この間の長雨で床下に穴があいちまいやがったんだな。早えとこ埋めねえと家が倒れちまうぞ」  崩れかかる穴の土に足をかけてなんとか這《は》いあがりますってえと、なんと家がなくなってしまっている。 源「あれ……」  あたりはじめじめした野ッ原で、そこここに畑や蓮《はす》ッ田があるばかり。 源「えれえとこへ出て来ちまったな」  と、よくよく眺《なが》めまわしますと、どうも見憶えのある景色なんで。 源「これはおめえ、以前の東京じゃねえのかな。いや、そうだ。ははあ、あの穴ぼこへおっこったら昔へ戻っちまったんだ。そうだよ、俺んちの場所は昔こんなだったんだよ。たしか京成《けいせい》電車はもう通っていたけれど、家なんかはまだ大してたてこんじゃあいなかったっけ。懐かしいなあ」  しばしあたりを眺めておりましたが、家のほうも心配でございますから、また穴へ戻ってもう一度あがると元の台所の縁《えん》の下へ戻った。 源「へっ、こりゃ重宝だ」  のん気な人で、それからは退屈するってえと穴を抜けて昔の東京をあちこち歩きまわっては帰って来る。 源「さて、今度はどこへ行くかな。ひとつ浅草へでも行って見るか」  と言っても、その時代のお金があるわけではございませんから、電車にもバスにも乗るわけに行かない。下駄を突っかけて、トコトコトコトコ歩いて行くだけでございます。  それにしてもまあ、昔なれ親しんだ町々がそのままそっくりあるんですから、懐かしいというかうれしいというか、くたびれるなんてことはまるで感じない。うれしがってどんどん歩いて参りますうちに、いつの間にか向島《むこうじま》を抜けて吾妻橋《あずまばし》へさしかかりました。 源「どうだいあのチンチン電車の愛敬《あいきよう》のあること。こんな僅《わず》かな坂をフウフウ言って登ってやがる。まるでマッチ箱のおもちゃだね。このほうがいいねえ。新幹線なんざやたら早えだけで愛敬もへったくれもあったもんじゃねえ。ピーッと来てフーッと行っちまいやがる。そのくせ雷が鳴るとすぐにとまるね。ピカッと来るとすぐとまる。それでヒカリ号ってのかね。それに地震でもとまるよ。地震、雷、火事、おやじって、気の弱い息子みてえなもんだ」  ブツブツ言いながら、懐かしい町の風景をたのしんでおりますってえと、若い男が一人、重いリヤカーを引っぱって、吾妻橋の坂を浅草《あさくさ》のほうへ、うんうん言いながら登ろうとしている。そういうのを放っとけるような源さんじゃない。 源「ほら、頑張《がんば》れ。そんな腰つきじゃあがりゃしねえぞ。もっと腰をおとして、足を踏んばって。それ……」  あと押しをしてやって、やっとの思いで吾妻橋のまん中あたりまで押しあげてやったんですが、ほっとひと息いれてその顔を見た源さんが驚いた。 源「あれ……」  なんとそれは源さんの若い頃の源さん。 若源「どなたか存じませんが、どうも有難うございました」 源「お前は俺の……」 若源「は……」 源「は、じゃねえよ。お前は俺の、その……(咳ばらい)年はいくつだ」 若源「来年検査で」 源「てえと……(暗算する)今は昭和八年か」 若源「はい」 源「(泣く)久し振りだったなあ」 若源「いったいどこの親方で」 原「あれからいろんなことがあってよ。ひでえ戦争だったぜ」 若源「どこと戦争……やはりシナと」 源「馬鹿言うな。アメリカにきまってるじゃねえか。このあたりだっておめえ、こてんこてんに焼かれちまってさ」 若源「アメリカと戦争……アメリカと……」 源「そうか。おめえはまだ知らねえんだな」 若源「ええ存じません。あたしはただの鋳《い》かけ直しで」 源「そうだったなあ。おめえの年には俺は鋳かけ直しをやって歩ってたんだっけ。……えぇ、鋳かぁけぇ……」 若源「なかなかお上手で」 源「そりゃ、おめえなんかと年期が……、違わねえな。俺はお前でお前は俺。お前は若くて俺は年寄りだけど、やっぱりお前は俺で俺はお前」 若源「大丈夫ですか。(片手をひろげる)これ、何本あります」 源「馬鹿、気ちげえじゃねえや。そうか、これから大変だな、おめえも。でもよ、一生懸命おやりよ。末にはきっといいことがあるからな」 若源「そうだといいんですが」 源「真面目に働いてさえいれば、きっといいことがある。だから一生懸命働くんだぞ。何かしてやりてえが、(ポケットをさぐる)金も何もあいにく持ってねえのさ。まあ、これでも取っときな」  アルマンのガスライターを一個やっちゃった。 若源「親方、有難うございました」 源「ああ、行っちゃった。いいなあ、若い時ってのは。あいつは来年兵隊検査で、あと何年かするってえと、うちの死んだ婆さんと一緒になる。あの婆さんも若え頃はこうピチピチしてやがって……うふっ。(大声で)畜生、うまくやれッ」  まことに世の中の縁というものはふしぎなものでございまして、その日の帰り道で気がついた。 源「あれ。そうするってえと、あのライターは昔俺が俺にもらってしまっといた奴か。なさけは人の為ならずって言うけど本当だね。そうか、俺がこんにちあるのも、みんな俺のおかげだったんだなあ。あの時の俺に会ったらよく礼を言いてえが、俺がこんな年になっちまってるんじゃ、きっと俺はもう死んじまってるんじゃねえだろうか」  源さんもすっかり考えてしまいまして、それからというものは、今はなき自分に対するお礼のつもりで、朝晩一心不乱に仏壇へ向っての読経三昧《どきようざんまい》。  きょうもきょうとてさかんにやっております。 源「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時《かんじざいぼさつぎようじんはんにやはらみつたじ》……」  台所のあげ蓋がスーッと持ちあがってコトリ……。 源「(合掌しながら横向く)照見五蘊皆空《しようけんごうんかいくう》……(目を剥く)度一切苦厄舎利子《どいつさいくやくしやりし》(唾をのんでお経のまま)婆さん幽霊出現」  台所の縁の下から出てまいりましたのが、とうに死んだはずの女房のおたね。 た「ああびっくりした。台所のあげ蓋の下にこんな穴があいてるなんて。あぶないからお前さんはやく埋めて……(源吉を見て驚く)あらやだ、おとなりへ出ちゃったのかしら」 源「(声をはりあげ)色不異空空不異色《しきふいくうくうふいしき》、色即是空空即是色《しきそくぜくうくうそくぜしき》。俺の体に想いが残っているかもしれねえが、死んじまったんじゃしょうがねえ。迷わず成仏《じようぶつ》しておくれ」 た「迷わず成仏って……やだねえ、あんたどうしてそんなに急に年とっちゃったのさ」 源「死んだおめえはちっとも年をとらねえ」 た「死んだ……あたしがかい」 源「おめえはとうに死んだ身だ」 た「やっぱりそうかい。(泣き出す)いえね、あたしゃ近頃どうも体の具合が悪いから、この分じゃながい命じゃないんじゃないかと思ってはいたんだよ。それにしても死んじまうとははかないこと……だからあたしはお前さんに、生きているうちに精一杯可愛がってもらおうと、毎晩毎晩せがんでるんじゃないか。それなのにお前さんたら、中だるみだかなんだかしらないが、ちっともかまっちゃくれないんだから。くやしい……」  って、妙な話になっちまった。  そういわれてみれば源さんも思い当るフシがある。ちょうどおたねが死んだ頃、源さんもどことなく体の具合がおかしくって、夜のおつとめのほうはとんとごぶさたのしっぱなし。 源「そうかそうか。言われてみればもっともだが、それにしてもおめえはまだ残りの色香がたっぷりだ。もってえねえことをしたもんだな。まあせいぜい生きてるうちにたのしみなよ」  人間幾つになっても色気というものは消えないもんで、源さんすっかりその気になって、仏壇の戸をあけっぱなしでおたねをヒイヒイ言わせちゃった。 源「どうだ、久しぶりに満足したろう」 た「あたしゃ死ぬかと思った」 源「死んだんだよ、おめえは」 た「そりゃ、死ぬ死ぬとは言ったけど」  って、どうもややこしくて仕方がありませんが、これはおたねが死ぬちょっと前に、源吉と同じように台所の穴をくぐってこっち側へ出てきたからなんでして。 た「ずっとこうして抱かれていたいけど、そろそろ亭主が帰ってくるし」 源「そうだな。俺に見つかって間男扱いされたんじゃかなわねえからな。あすの晩でもまた来ねえ」 た「あら、来てもいいのかい」 源「亭主に見つからねえようにな」  てめえの女房とてめえが間男をしてりゃあ世話ぁない。  ところが年はあらそえません。みるみる痩せ細ってこんなんなっちゃった。娘夫婦が心配してあれこれたずねはじめました頃、おたねもとうとう死んだとみえてふっつりと姿を見せなくなりました。  源さんすっかり弱気になっちゃって、 源「ああ俺はすまねえことをした。いくらおたねの望みとはいえ、俺は穴の向うの俺に顔向けができねえ」  と、これまでのいきさつを逐一白状に及びました。  この話が娘夫婦からアルマンのおえらがたにつたわりますってえと、そういう因縁があったのならと、源さんの家のあたりの土地をすっかり買い取りまして、ここに立派なお寺をたててくれました。  今も葛飾に残る時転山妙穴寺の由来、おあとのお仕度もよろしいようで。 [#改ページ]   泪稲荷界隈  小説を書いて暮すようになってから、よく夜中に家の近所を歩きまわっている。  夜の道を散歩しながら構想を練る……のだといいのだけれど、実際はなんとか書く気分に自分を引っぱり込もうと、そればっかりで暗い道に下駄を引きずっているだけだ。  家は以前の玉電《たまでん》、今の世田谷《せたがや》線の松蔭《しよういん》神社前にあり、昨今いろいろと物議をかもしている国士館の地元である。深夜のぶらぶら歩きがはじまってもう何年にもなるが、私の知る限りではそんなに物騒な学生たちではないようだ。二年ほど前の夏、一度からまれただけである。  何しろあばら屋だし、人が訪ねて来てもろくにお通しする部屋がない。だから人と会うときはたいてい渋谷《しぶや》まで出かける。東急プラザの二階にフランセという喫茶店があり、そこで待合せをする。紀伊国屋《きのくにや》書店の下だから、出版関係の人ならだいたい場所は判ってくれる。ただ、横に細長いので右の奥へ入られると探《さが》すのが厄介で、たいていの場合、入口を入って左側の席でお待ちください、と指定することになっている。  原稿は書いたらだいたいお届けすることにしているが、フランセでお渡しする場合も多い。フランセの難点は人声で騒がしいこと、土曜の午後や平日の六時前後が満席になりがちなこと、それに、渋谷|通《つう》の人に限って、駅の向う側の東急文化会館となりのフランセへ行ってしまうこと、などである。  だいたい渋谷という町は谷底の町で、それが道路と電車でズタズタにされているから、慣れない人には随分判りにくい町だと思う。地下鉄の駅が三階にあることなどは、判りにくさの代表的なものである。  渋谷そのものも、妙な形をしていて、代々木神園《よよぎかみぞの》町……つまり神宮《じんぐう》の森を中心に、あっちへ出っぱり、こっちがへこみ……新宿を出て甲州街道へ入るとすぐ、初台《はつだい》、本《ほん》町、幡《はた》ケ谷《や》、笹塚《ささづか》と、環七まではほとんど渋谷区内であるし、小田急線の南新宿《みなみしんじゆく》 も渋谷区なのである。新宿|御苑《ぎよえん》も約三分の一は渋谷区で、ことにあの池などはほとんど渋谷区になっている。  そうかと思うと、玉川通りを三軒茶屋《さんげんぢやや》へ向う途中で、目黒《めぐろ》区に鋭く食いつかれ、道玄坂《どうげんざか》上の先、山手《やまて》通り交差点からは目黒区である。東大教養学部や宇宙航空研究所のある駒場《こまば》は目黒区で、それが代々木上原《よよぎうえはら》と接しているのだから、道なりに考えて行くと随分妙な感じがする。  赤坂見附《あかさかみつけ》のほうから青山《あおやま》通りを渋谷へ向うと、たしかに両側とも港区青山だが、その右側の町なみ、北青山二丁目から三丁目は、ひと皮むけば裏がすぐ渋谷区になっている。  青山学院のはずれから西麻布《にしあざぶ》へ向う道が分れていて、丁度その反対側で北青山の町が途切れ、青山通りの両側とも渋谷区になるのだが、その港区の端にへばりついた形で、西青山がある。  青山は南が一丁目から七丁目、北が一丁目から三丁目まであるが、西青山には丁目がない。渋谷区神宮前五丁目と接していて、ごく小さな、細長い町である。  渋谷から宮益坂《みやますざか》を登って行くと、今は左側が渋谷区渋谷一丁目、右が二丁目だが、以前は左が美竹《みたけ》町、右を金王《こんのう》町と言った。  美竹町は御岳神社があるからで、金王町は金王神社があるからその名がついた。神社は今もちゃんとあるが、町名のほうは区役所のほうでわざと情緒のないものを選んで変えてくれた。  どうも渋谷の区役所の人は、山の手線の外側の町名だけに愛着を持っていたらしい。代官山《だいかんやま》、猿楽《さるがく》町、鶯《うぐいす》 谷《だに》町、鉢山《はちやま》町、桜《さくら》 丘《がおか》町、南平台《なんぺいだい》町などは無事生きのびたが、山の手線の内側の並木《なみき》町などはお取り潰し、景丘《かげおか》町、伊達《だて》町から、上智《じようち》、氷川《ひかわ》、田毎《たごと》、常磐松《ときわまつ》なども綺麗《きれい》に掃除されてしまった。  だから御岳神社の下で宮下《みやした》町なんていう判りいいのもないし、穏田《おんでん》神社があって穏田という古い名前も消滅した。  神社が町の名を代表する時代はすぎたというのなら、いっそのこと神宮前出張所町とか、都職員共済組合病院一丁目とかすればいい。目標になる判りいい建物はいくらでもある。  港区だってどこだって、区役所の人がやることはだいたい似たようなもんで、高樹《たかぎ》町なんてのもなくなってしまった。そのくせ高速道路にはちゃんと高樹料金所というのがある。実際にはない町なのに、そこで金をとるのはどうかと思う。つけるんなら西麻布料金所とか、実在している町の名で金をとってもらいたい。  だいたい高速道路なんて名がいけない。鉄道では特急が遅れたら払い戻すことにしている。高樹町で金を取られてほんの少し走ったら、六本木《ろつぽんぎ》の先の高速環状線の入口でにっちもさっちも行かなくなった日には、金を取られたというより、金を盗られたと書きたくなる。町名といい、まったく血も涙もないご政道である。  涙と言えば、西青山の町名も以前は泪《なみだ》町であった。御岳神社があって美竹、穏田神社で穏田、金王さまで金王町などというのと同じように、江戸末期に大層|流行《はや》ったという泪稲荷があったからである。  泪稲荷は今でも残っている。  何の変哲もない小さなお稲荷さんだが、ご用とお急ぎでなかったら、場所ぐらい知って置かないと青山|通《つう》とは言えまい。……まったく昨今は青山通という人たちが増え、スーパーの紀ノ国屋の紙袋をぶらさげて門前仲《もんぜんなか》町を歩いていると、若い娘がふり返るってんだからとめどがない。  で、西青山の泪稲荷へ行く目じるしだが、その紀ノ国屋の前を渋谷へ向って歩いて行くとすぐ小さな交差点で、あってもなくてもいいような信号がついている。  その信号がたまたま赤になっていて、律儀に青を待つのだったらその間にちょっと顎を上げて上を眺《なが》めて欲しい。ついこの間まで工事中だったシートのかこいがとれて黒光りするビルの壁が見えるはずである。あんなひょろ高いビルが見えないようなら、余程目が悪いか想像力に欠けているかのどちらかで、そんな人こそ泪稲荷へおまいりしたほうがいい。泪稲荷へ願をかけると眼病が治り、いい夢が見れるというのが昔から伝わっているご利益《りやく》である。  そのひょろ高い黒いビルをめあてに進むと、すぐにまた小さな横道があり、そこから先が西青山である。  青山通りに面して、リヨン、というフランス風のパン屋がまずある。  リヨンの本店は六本木で、ドンクだめ、サンジェルマン俗化のあとをうけ、只今のところ味の点でトップを走っている。おすすめ品は自家製のシャーベットで、デザートとしては最高である。  そのとなりが有名な叶宝飾店だが、私などにはまるで縁がない。黒いひょろ高いビルは窒素工業経営者連合会ビル、という長ったらしい名前がついている。  なぜか窒素ビル、で通っているが、窒素工業経営者連合会というのは、とかく公害問題を起しやすい窒素工業の経営者が連合して……なんだかひどく愚かしい説明をはじめそうなのでやめるが、会長は経団連の実力者として有名な、あの薄井清益氏である。  薄井清益氏の好みというわけではあるまいが、この窒経連の事務局には美人職員が多い。窒経連は日本でも有数の金持ち団体であるから、女子職員も自然良家の美女たちが集って来るのだろう。  窒経連のビルの横が狭い商店街で、だらだらと渋谷区の神宮前出張所のほうへ曲りくねりながらおりて行く道になっている。  西青山商店街入口の左角は山本という肉店で、青山通りに面した山本肉店のとなりは鈴木酒店である。  鈴木酒店は実は私の遠縁に当る。先代が私の母の叔父《おじ》で、今はその長男が店をついでいる。子供の頃、母につれられて、あの懐かしいチンチン電車で青山通りを渋谷へ向うと、青山六丁目の停留所をすぎてすぐ、母がきまって窓の外を指さし、ほら叔父さんのお店だよ、と教えてくれたものである。  その母も、今はまだ元気で……窒経連なども以前はなかった。本当に昔はのんびりしていたと思う。  その鈴木酒店までが西青山。昔でいう青山泪町である。  角の山本肉店は別にとりたてて言うことはない。ごく普通の肉屋さんで、変っていることと言ったら、入口の軒下をよく見ると、山本|〓太郎《りんたろう》という表札がかかっているくらいなものだ。人の名前なんか、多少妙な感じでも仕方がない。あのヘンシン歌手より年は上なのだろうから……。  狭い商店街へ入るとすぐ、山本肉店のとなり……つまり青山通りからだと裏になるわけだが、そこが最近急に知られはじめた、サパー・クラブのギロチンという店である。  あの辺《あた》りはよく行くので、私も何度か入ったことがある。名物はかなりイケるサラミの厚切りで、テーブルへつくと注文のあるなしにかかわらず、飲物より先にまずそれが出てくる。  ギロチンという店名は、そのサラミを切るのに、精巧なギロチンの模型を使っているからである。  客が来るとマスターだかマネージャーだかが台の上のサラミを一定寸法だけ前へ押しだし、重い刃をガタンと落す。サラミはポトリと切れて前の籠《かご》へ落ちる。じっと見ていると、切れ落ちた瞬間、何だか下腹部がスッとするから妙だ。  判らないのは、すぐそばの席でじっと見ている女の子なんかが、そのギロチンがサラミ・ソーセージめがけて落ちる瞬間、キャッと大げさな悲鳴をあげてみせることである。頬《ほお》の下の肉づきやバストのふくらみ方などを見ると、どうも首が落ちるのを連想している風には思えないのである。もし私の臆測《おくそく》が正しければ、彼女たちは所有していないはずだし、いったい誰のをあわれんでのことなのだろうか。  どちらにしても、折角の商売をけなすようだが、サパー・クラブのギロチンは、そう長つづきしそうもないように思える。趣向といったって、それと梁《はり》にぶらさげた人形の首ぐらいなもので、サラミ以外は食物も大したことはないし飲物だって通り一遍で、勘定ばかり張っている。  むしろ、そのとなりのスナックのほうが余程気がきいている。無理して面倒なメニューをこしらえているわけでもないし、喫茶店で軽食もだすと言った風な、ごく気のおけない店である。  店の名は、メロメロ。ママの年は二十八。名前は本田《ほんだ》サチ子。サチはどういう字を書くのか、私はまだ知らない。ニューヨークに三年ほどいた版画家志望の女性で(志望と言うとおこられるかなとも思うのだが、まあ私はその店の常連みたいなもんだから許してくれるだろう)ことしのはじめに個展をやった。  というと才女みたいな女性を考えるかもしれないが、当人は至って才女ぶらない善女である。この界隈《かいわい》に出没する画家、詩人、歌手、俳優の卵たちのリーダー格で、余程男に惚《ほ》れっぽいのか、しょっ中|揉《も》めごとを起している。  メロメロは小さな四つ辻の角に当っていて、店は正方形に三角をくっつけたようになっている。商店街の通りが、そこで斜め左に枝道を作っているからだ。そしてメロメロの入口のドアのまん前に一本、パン屋のリヨンのところから入って来る通りへ、直角に路がついている。  その路の左側、つまりリヨンの入口からみて左前方が小さな公園で、砂場とブランコとハッチの茂みと貧弱な杉の木がある。  泪公園である。  泪公園はもと泪稲荷の境内で、公園の端、リヨンから入って来た道の側に、四角い石の柱に奉納者の名を刻んだ囲いがめぐらしてあり、泪稲荷はその中におしこめられている。  泪公園にある、四つの鉄の鎖のブランコは、夜ともなればひっきりなしにキーコ、キーコと音をたてつづける。泪という名がそうさせるのか、入れかわりたちかわり、夜ごとにブランコを鳴らす男女がみな言い合せたように物哀しげなのだ。二度としないわ恋なんて……みんなそんな顔をしてやって来て、ほの暗いくたびれかけた蛍光灯《けいこうとう》の光の中で、夜もすがらキーコ、キーコとやっている。  メロメロの前で斜め左へ折れくだる道と、商店街から直進する道の角。デルタ地帯にドンゴロスというブティックがある。  ドンゴロスは、某フォーク・シンガーの奥さんがはじめた店で、まだ開店してから一年半くらいしかたっていない。以前は八百屋だった場所だ。  特色は全商品手づくり。器用な奥さんで、革のマキシ・コートから帽子まで自分で作ってしまう。店に四種類のミシンやその他の道具が置いてあり、買手の寸法に合せてみるまに仕上げてくれる。ちょっとラフなものばかりだが、彼女のセンスが今の流行とピタリ重なっていて、かなりの繁昌ぶりである。  道ひとつはさんで、横に細長い泪公園と平行して、泪荘アパートがある。一、二階合せて十三世帯入っている。本当は十四世帯分あるのだが、二階の端に住むイラストレーターのKさんが、仕事場としてもう一つ借りてしまったから半端になったのである。  Kさんのイラストは、私も広告屋時代随分お世話になったが、近頃はすっかり文化人になってしまって、イレブンPMやなんかによく出るから、本職のほうが幾分お留守になっているという噂《うわさ》である。  一時期、メロメロのママがKさんの部屋に入りびたりだったらしい。あのママのことだからそう長く続きはしなかったようだが、当時は歌手のTが泪公園で、それこそひと晩中泣きながら唄っていたという。  泪稲荷の裏は下が泪寿司、上が柿麿というお茶漬屋《ちやづけや》さんだ。泪寿司は随分古い暖簾《のれん》だそうだが今は名のみで、点の甘いので有名な、うまい店たべあるき、などという本にさえ書かれなくなったという。  それにひきかえ、二階の柿麿は、変り者で有名な日本画家がはじめた店で、店中に浮世絵を貼《は》りめぐらし、その中には相当な逸品も混っていて見るだけでも価値があると某誌に紹介されて以来、千客万来。あたりに当っている。  泪稲荷の赤い鳥居の前、表通りのパン屋リヨンの裏は、去年独立したばかりのサウロニアの大使館である。アフリカのほうは続々と新しい国が誕生するので、まったく憶えるのに骨が折れる。  神宮前《じんぐうまえ》にはトルコ大使館、広尾《ひろお》にはガボンとチェコスロバキアの大使館。恵比寿《えびす》にはボリビア、南平台にはマレーシア、松濤《しようとう》町にはグァテマラとナイジェリア、神山《かみやま》町にはニュージーランド、代々木《よよぎ》がブルガリア、元代々木《もとよよぎ》がヴェトナムと、渋谷区にも大使館が随分増えたものである。  ところが、このサウロニア大使の令夫人は、本国では人も知る大祈祷師《だいきとうし》なのだそうである。毎日没時、屋上から奇怪な、それこそ身の毛もよだつような絶叫が聞えるのは、令夫人の礼拝なのであろう。  窒素ビルの裏とサウロニア大使館と本屋の間は大使館の庭で、手入れも何もしない荒れはてた庭を、よくその大祈祷師が散策しているという。  元へ戻って西青山商店街通りのサパー・クラブ・ギロチンと、スナック・メロメロのトイメンは、トービ美容院と不動産屋である。  不動産屋はすぐ窒素ビルの黒い壁に接し、二階には西青山通信社という看板がでている。  西青山通信社を経営しているのは青山君という美青年で、以前は広告代理店のようなことをやっていた。私とはその頃からの知合いで、一種独特の鋭くうつろな瞳をした人物である。  広告屋当時はごく普通のビジネスマン風にきちんとスーツを着てネクタイをしめ、やり手には違いないがそう勇敢な男とも思えなかったが、先日久しぶりで会ったら肩のあたりまである長髪で、どう見ても女物らしい花柄のシャツなど着こんでいるので驚かされた。聞いてみると、青山ガイド、みたいな小冊子を定期的に刊行して、地元の各商店に売らせているのだという。  その青山君が声をひそめ、実は……と西青山に関する奇妙な情報を教えてくれた。 「サウロニアはこの東京へとんでもない秘密兵器を持ちこんでいるんですよ」 「秘密兵器……」  私は咄嗟《とつさ》に核爆発のキノコ雲を連想しながら問い返した。 「独立直後のことですし、サウロニアは内政、外交ともうまく行ってないんです」 「で……」 「武器、食糧を含め、全面的な日本の経済援助を求めて来てるんです」 「サウロニアはアフリカの国だろ。地下資源か何か、見返りがあるんじゃないのかい」  青山君は深刻な表情で首を左右に振った。 「それが全然ゼロ。日本は金持だから、貧乏国を援助するのは当然だ、と言ってひどく高飛車に迫っているんです」 「無茶なはなしじゃないか、それは」 「彼らは真面目です。もし言うことを聞いてくれないなら、ウンと言うまで東京の町をひとつずつ消して行くとおどしてるんです」 「ほんとか……核兵器か何かでか」 「いいえ」  青山君はおぞましげに首を振った。 「呪術《じゆじゆつ》でですよ」 「呪術……」 「そうです。うらの大使館に、サウロニアの大祈祷師が来てるんです。大使夫人ですよ」 「夕方になると屋上で喚《わめ》いてる人かい」 「ええ」 「で、日本の政府の回答はどうなんだ」 「本気にしてやしません。いいかげんにあしらってるようです。それで、サウロニア側はひどく態度を硬化させてるって話です。来週あたり、まず手はじめに、この西青山を消すと通告したそうです」 「まさか……」 「そうですよねえ。できっこありませんよねえ……」  青山君は私の薄笑いに合せて微笑したが、ひどく元気のない表情だった。  それ以来、まだ私は青山君に会っていない。この西青山案内を書きながら、私はふと青山君のことが気になりはじめた。書きおえたら会いに行くつもりである。  呪術で町をひとつ消してしまうなんて、そんなことできるはずがない。あれからすでに何週間もたっているが、西青山がなくなるなんて、そんな馬鹿なこと、起るわけがない。  いくらなんでも、私だってそこまで迷信深くはない。しかし、なんとなく、虫のしらせとでも言うか、あの青山君のことが心配なのである。  とにかくこれから、西青山へ行ってくる。 [#改ページ]   めぬけのからしじょうゆあえ  とうとうその日がやって来てしまった。地球がおわるのである。どういうおわりかたをするか、ずっと以前から、学者がいろいろなことを言っていた。だが、どんなおわりかたをしようと、もう問題ではなくなってしまった。おわれば、明日はないのだ。  最後の日をどう過すか、それもいろいろと議論された。 「あと二日で地球はおわります。この二日間、あなたはどうお過しになりますか」  そんなばかげた質問をする奴がいた。どう過そうと、二日しかなければもう人のことなどかまわなくてもいいではないか。 「さあ……むずかしい問題ですね。二、三日考えさせてください」  そう答える洒落《しやれ》た男がいた。するとその質問をした奴のほうは、 「それじゃあ、三日後にもう一度同じ質問をさせてください」  と言ったそうだ。つまり、冗談の言いっこをしているよりほかに、もうテがないのかもしれない。  変にあきらめがよくて、いつものように自宅でゴロゴロしていたり、今日がおしまいという時まで、ケロリとした顔で会社へ出かける連中もいたが、大半は泣き喚き、狂乱の限りを尽していた。  謹厳実直を売り物にしていた人々に限って、もうこれでおわりだと判ると、ひどい行動に出た。婦女暴行は当然で、盗み殺人放火に爆破……ありとあらゆる悪業の数々が、至るところで行なわれている。  そして、人々はそれを容認してしまっていた。地球がおしまいになるのなら、それくらいのことは当たり前だと思っているのだ。そうした兇暴性は、人によってもっとずっと以前に発してしまった場合もあった。あと一年というところで思い切りやってしまい、今ではすっかり冷静になってしまっている者も多いらしい。  人それぞれ、生まれ育ちに性格、環境……さまざまな要因で終末への反応は違っていたが、要するに今度ばかりはみな死ぬときは一緒なのだ。  地球がブッこわれる。  それがはっきり今日だと判ったら、いったいあなたならどうしますか。角の銀行の支店長のように、道路で次々に女を襲いますか。あそこの洋品屋のおやじのように、店の前で切腹しますか。それとも、八百屋一家のように、弁当を作ってみんなで先祖の墓まいりに出かけますか。  とにかく、そういう混乱の中を、いま一人の板前が、息を切らせて自分の職場であるこの料亭へ近づいていた。彼は自分の家で、ついさっきまで何昼夜もぶっ通しに、最愛の妻と睦《むつ》み合っていたのである。この世の名残りに、精かぎり根かぎり交わって、愛する女と抱き合って地球がおわる瞬間を迎える……とまあ、そういう風にきめていたのだ。  ところが、性の欲求がつのると男はいろいろ面倒を起すものだが、その欲求が解消されすぎても、妙なことを考えてしまうらしい。  ガバとはね起きて、 「そうだ、俺は板前なんだ」  と着物をつけはじめたのである。 「置いて行かないで。お願いだから一緒にいて」  板前の妻は必死でそれを引きとめた。だいたい女などというのは、意味もなく男と一緒にいたがる。筆者《わたし》だってそれでどのくらい面倒な思いをしたか……。まあ、地球がこれでおしまいになるんだからどうでもいいようなものだけど。 「とめてくれるな」  板前は引きとめる妻の手をふりはらってそう言った。 「お勝《かつ》、俺は死んでも板前なんだ。この道ひと筋に命をかけて来た。地球のおわるその時まで、俺は板前でいたいのだ」  もののたとえではない。本当に地球がおわる日の昼さがりであった。  そして駆けだした。包丁一本|晒《さら》しに巻いて、バスも電車もとまった町を、ただひたすらに走りつづけた。  料亭は、当然のことながら、もう営業をしていなかった。使用人はめいめいの家へ帰ってしまったし、経営者一家もどこかへ行ってしまっていた。犬猫は飼っていないから、もう人っ子一人いないはずであった……のだが、一人だけ、板前の見習いが残っていた。  みなし子で、どこへも行くところがなかった。板前の見習いと言っても、掃除やあとかたづけが専門で、まだ包丁だってろくにとがしてはもらえない。年は十七。地球がおわろうとどうしようと、大した関係はない……というような顔で、板場でゴロゴロしていた。  そこへ板前が駆けつけて来た。 「あ、板さん」  板前はハアハア息を切らせて勝手口にへたりこんだ。 「み、みずくれ」 「ハイ」  板さんは板場の王様だ。絶対権力者である。見習いはあわててコップに水をくんでやった。板前はそれを飲みほし、やっとひと息ついた。 「健、お前、なんでここにいる」 「だって、行くとこないんだもん」 「そうか、そうだったな」  板さんは憐《あわ》れみの色を泛《うか》べた。 「まあ、それも運命だよな。とにかくもうおしまいだ」 「板さんはどうして……」 「俺は板前だ。地球がぶっこわれるその瞬間まで、料理を作っていてやる」 「だってお客が……」 「客なんかいようといまいと関係ない。俺は料理を作るぞ」  板さんは手拭で顔の汗を拭うと、板場へ入って白い上着を着た。 「健。冷蔵庫をあけてみろ」  包丁をとりだしながら言う。 「仕事ですか。よしましょうよ」 「うるせえ。言うとおりにしろ」 「はい」  健は不承不承冷蔵庫をあけた。 「なんにもないですよ」 「なんか残ってるはずだ」 「あることはありますけど……白身が少し」 「どれ、持って来い」  健はその魚を板前のところへ持って行った。板前はそれを見て言う。 「まあいいや。お前にも料理を教えてやる」 「へえ、面白れえな。最後の日に板さんから教えてもらえるなんて」 「さあ、お前も板前の端くれだ。俺と一緒に板前らしく死のう」 「かっこいい……やりますよ」  健もその気になったようである。 「これ、なんて魚ですか」 「こいつはめぬけだ」 「めぬけ……」 「深海魚だよ」 「あんこうみたいな」 「そう。水の上へあげると目玉がとび出しちゃう。それで目抜け……」 「ははあ、つまんない名の付けかただな」 「こいつは脂《あぶら》が多い。鍋物《なべもの》、汁物《しるもの》、あえ物などに使うときは、脂を一度抜いたほうがいい」 「どうするんで……」 「沸《わ》きたつちょっと前の湯に入れて、弱めの中火で二、三分煮る。煮てすぐ冷たい水につけるのがコツだ。煮たあと放っておくとダレちゃうからな。そして水で冷やしたらすぐふきんで水を切っておく」 「よし来た。やらせてくれますか」 「いいとも。手早くやれよ」  健はよろこんでガスに火をつけた。 「めぬけは、町で売るときはたいてい、あこう鯛《だい》なんて言われてる。下身《したみ》があれば焼くか煮るかするんだが、こいつは上身《うわみ》だ。あえ物にしよう」 「下身というと骨つきですね」 「憶えたな」 「憶えたところで地球がおしまいになっちゃった……」 「愚痴《ぐち》るんじゃない」 「ハイ」 「いいか、白身はだいたいサラッと行くもんなんだが、めぬけは脂が多いから、ちょいと濃い目の味をつける。白身ならなんでも薄味と思っちゃいけない。それに、身割れをするから、湯がくときは切り身をちょいと厚目にする。でないと、皮がちぢこまって身のほうが反るから身割れをしちまうのさ」 「なるほどね。早くおそわりたかった」 「そう言うなって……。どうだ、脂抜きの具合は。そうそう、そのくらいでいい。さっと冷やしてふきんで拭く。ふきんをそんなに力いれちゃいけないよ」 「こんな具合……」 「そうそう。そうっとだ。さあ、これからはじめるぞ」  板前はうどに生わかめに木の芽といった品をみつけてまな板のそばへ並べた。 「何を作るんです」 「めぬけのからしじょうゆあえだ」 「めぬけのからしじょうゆあえ……」 「そうだよ」 「めぬけのからしじょうゆあえ、か」 「名前に感心ばかりしてないで、からしじょうゆだから、からしを溶きな」 「あ、からしを溶くならうまいもんです。いつか煮方《にかた》の元さんにほめられた」 「そうかい」  そのとき、大地がグラグラッと来た。 「はじまったらしいぜ。かまわずやるんだ」  板前は健をはげました。 「今日でおしまいか。さっぱりしていいや」  健は案外平気らしい。 「さあ今度はわかめの色だしだ。熱い湯をかけて……ダメダメ。さっき脂抜きをしたとき、俺がそれに酒と塩を少し入れといた。別な湯をかけるんだ。ほら、いい色になるだろう」 「ほんとだ」 「それを一寸ぐらいのザク切りにしろ。包丁を使わせてやる」 「ありがてえ……」 「一寸だよ、ばか。一寸と言えば三センチくらい。そうそう。うどはこのくらい。見てろよ。ほら、一寸よりちょい長い。皮は厚目にむいて……勿体《もつたい》ながるんじゃねえぞ。それで、こうやってたんざくに切る。切ったら……いつまでわかめをいじってやがるんだろうな。ざく切りはそっちへ置いて。ほら、今度はうどを晒《さら》す。水に晒すんだよ。うどは必ずあく抜き……忘れるな」 「地球がおしまいに……」 「なったってかまわねえ。めぬけのからしじょうゆあえを作ってればいいんだ」 「めぬけのからしじょうゆあえ、めぬけのからしじょうゆあえ……」 「ほら、溶きがらし」 「なんだかまわりが燃えてますよ」 「ボールを持ってうろうろするな。ごみが入ったらどうするんだ」 「でもほら、火がジャンジャン」 「地球がおわるんだ。そのくらい当たり前さ」 「でも母家《おもや》も燃えだしてる」 「いいんだよ、ほっときな」 「ハイ」 「溶きがらし」 「ハイ」 「しょうゆが大さじ一杯半くらい、酒が小さじ一杯。それでもう一度かきまぜる。……ゆっくりやるな、ばか。チャチャチャッとやれ、手早く、手のろいといい板前にはなれねえぞ」 「ハイ。でも、もうあたりいちめんに火の海」 「かまうな、ばか。地球のことより、めぬけのからしじょうゆあえのことを考えろ」 「でも気になる」 「ぶん撲《なぐ》るぞ、こん畜生」 「板さん、手が震えてる」 「こわいよ俺だって。地球がおしまいなんだからな」 「いま世界中が燃えてるんですね」 「そうだな」 「ここももうじきですね」 「うん。だから早くしよう」 「からしじょうゆができてますよ」 「よし、わかめだ。わかめをいれて軽くかきまぜろ。外の火なんか見るんじゃねえぞ。ほら、器《うつわ》だ」 「どうするんです」 「かせ、このばか。こうやって器に……」 「めぬけは」 「いけねえ、めぬけをいれなきゃ、めぬけのからしじょうゆあえにならねえじゃねえか。なにやってるんだ」 「なにやってるって板さんが……」 「ほら、本当はわかめを入れたとき一緒にいれるんだ。まあいいや、盛るぞ」 「できあがりですね」 「菜箸《さいばし》……菜箸をよこせ。手でつかませる気かよ。まだ当分使えねえな、お前は」 「でももうおしまい。残念でした」 「板前をからかっていいと思ってるのか」 「最後くらいやさしくしてくださいよ。ボンボン燃えてるんだから」 「ほら、こうやって木の芽を飾ればおわりだ。いいか、こいつは早く作りすぎると、客のところへ出る前にからしがとんじまって、気が抜けたみたいになっちまう。めぬけのからしじょうゆあえって言われてから、さっと作ってさっと出すのがコツだ」 「でも、どうしてここだけ燃えないんだろう。ねえ板さん」 「知るけえ。とにかくめぬけのからしじょうゆあえができたんだ。食って見るか」 「いいんですか」 「ボールに残ってる。ちょっとためしてみろ」 「からい」 「ばか、からしじょうゆあえだ」 「でも、ありがとうございました。これでめぬけのからしじょうゆあえだけでも憶えて死ぬことができます」  そのとき、板場へ一人の白い衣をつけた者が現われた。 「あんただれ、羽根なんか生やしちゃって」 「私は天使」 「天使。どうして天使がこんなとこへ」 「もう地球はおわりました。この星で生残ったのは、お二人だけです」 「俺たちだけなの」 「そうです」 「どうしてまた俺たちだけが」 「あなたがたは、呪文《じゆもん》をとなえました。この災厄をまぬがれる、唯一の呪文です」 「呪文、どんな」 「メヌケノカラシジョウユアエ」 「あ……」 「かたどおり、それを正確に十一回となえた者は救われるのです。あなたがたは救われました。さあついていらっしゃい」  天使は炎の中ではばたいた。二人はそれについて、どこか遠い平和な場所へ去って行った。 [#改ページ]   幻影の階層     1  その少年は何ひとつ荷物を持っていなかった。列車に乗るときは小さな紙袋をひとつだけ持っていたのだが、その中身の握り飯は、上野駅へ着くまでに食べてしまった。  車内でその握り飯の包みをひろげるとき、少年は少し恥かしそうにしていた。みんな駅弁やサンドイッチを食べていて、今どきまん中に梅干しの入った握り飯などを持って歩いている者はいなかったからである。  うしろから二輛目のまん中あたりの席に坐《すわ》ったその少年は、至って行儀よく振舞っていた。トイレへ二度ほど立った以外、じっとその席に坐って窓の外を見つめていた。窓の外は暗く、夜行列車の客たちは大半が睡《ねむ》っていた。少年も少しうとうとしたようだったが、それほど深く睡ったようには見えなかった。外の景色は暗くて見えるはずもなく、少年はガラスに映る自分の顔をみつめて朝を迎えたらしい。  六時半ごろ、その列車は赤羽《あかばね》の鉄橋をこえた。車内が一斉にざわつき、人々は網棚《あみだな》から荷物をおろしたり、コートを着たりしはじめた。  つりこまれたように、その少年も白っぽいダスター・コートを着た。乗り込んでからずっと、丁寧にたたんで膝《ひざ》の上に置いていたのだが、着たところを見ると少し大きい感じであった。  少年はズボンのポケットから切符をとりだして眺《なが》めていた。その一枚の切符には、何人かの同情がこめられていたのだ。どうしても東京へ行ってくる。歩いてでも行くのだ、という少年の決意に動かされて、みんなが少しずつ金を出し合ってくれたのだった。  しかし、少年が東京へ着いてからのことに関しては、誰《だれ》一人その成果を期待していなかった。行って気がすむなら行かせてやれ……みんなそういう気持で金を出し合ってくれたのだ。  だが、少年だけは違っていた。東京へ着いてあの男に会いさえすれば、事情はきっと好転すると思っていた。どうしてもあの男を探《さが》しだすつもりであった。  通過する駅ごとに、出勤する人影が動いていた。まだ本格的なラッシュ・アワーには少し早いが、それでも少年の目には大した人数に見えた。  いよいよ終点へ近づいたのを感じて、少年は席を立った。立って、今はもう外が明るくなってうっすらとしか映らなくなった窓ガラスに、自分の身なりを映して見た。  もちろん、白いダスター・コートはもらいものであった。随分以前にはやったコートで、ボタンは全部内側にかくれている。両わきのポケットは斜めに口がついていて、そのあたりはだいぶすり切れている。コートの下は鼠色《ねずみいろ》のセーターで、その下に着た白い木綿のシャツの襟《えり》が、洗いざらしだが清潔な感じを漂わせている。  それに、黒いズボンとバスケット・シューズ風のゴム底の靴《くつ》。山奥から出て来たにしては、一応きちんとしていた。  少年は自分の姿を眺めて安心したらしく、丁寧にコートのボタンをかけた。何しろえらい人に会うのだから、きちんとした身なりでなくてはいけないのだ。  車内放送が終点の上野《うえの》だと告げた。少年は乗りかえのホームの案内に耳をすませた。しかし、そのかんたんな放送だけではよく判らなかった。ダスター・コートの内ポケットから手ずれのした折りたたみの東京の地図をとりだして、立ったまま熱心に見る。  ガタンと一度大きく揺れて、列車はゆっくりと上野駅のホームへすべりこんだ。少年はあわてて地図をしまい、右手でしっかりと切符を握った。     2  少年は随分長い間、上野駅の中を歩きまわっていた。どの電車に乗ったらいいのか見当がつかず、地図でよくたしかめて、多分このホームへ来る電車だろうと見当はつけても、いざ乗るとなるとその勇気が出なかった。万一間違えでもしたら、今よりもっと判らなくなると思ったのだ。  そのうち、本格的な通勤ラッシュになってしまった。滅茶苦茶な混みように恐怖を感じた少年は、電車に乗ることをあきらめ、駅を出ることにした。わけのわからない電車に乗るより、歩いたほうが安全だと判断したのだ。  冬のおわりで、風はまだ冷たかったが、歩いていると体がほてって来て、その冷たさがちょうどいい具合だった。  その朝、上野駅を出て歩きはじめる少年を気に留めた者は一人もいなかった。店のシャッターをあげる店員たちも、車を運転する人々も、すれ違う無数のサラリーマンたちも、そんな少年がいたことすら気付かなかった。まして、少年の行先について助言してやる人間などいるはずもなく、やがて少年は車と人の急流にまきこまれ、見えなくなってしまった。どこをどう歩いたのか、少年自身にもよく判らなかったに違いない。が、とにかく、どう道順を間違えたにせよ、昼近くには大きな公園の中のベンチでひと休みしていた。その公園は少年の目的地のすぐそばにあった。  少年が坐ったベンチの真正面に、巨大な高層ビルが見えていた。歩けばその高層ビルまではまだ少し距離があるようだったが、少年の顔には、ここまで来ればもう間違いはしないと言うようなゆとりがうかがえた。  そのビルは青く光って見えた。高く大きく、どっしりと濁った空に居すわっていた。  あの人はあんな大きなビルの中にいる。……そう思うとつい心が弾むのだった。山の人々がまだ一度もかかわったことのないような、大きな力を持った人物が、これから少年とその母親の味方になってくれるはずであった。その人物の力の大きさを青く光る高層ビルが象徴しているようであった。  公園には鳩《はと》がいた。人に馴《な》れた鳩を見るのははじめてで、少年はついベンチから腰を浮せた。鳩は餌がもらえると思ったらしく、ためらいもせず少年がさしのべた手へ近寄って来た。 「餌はないんだ」  少年はすまなそうに言った。だが鳩は少年の人差指にくちばしをつけ、くく……と啼《な》いた。 「東京の鳩はいいなあ」  逃げようともしない鳩に手をさしのべたまま、少年はそうつぶやいた。 「そうかい。東京の鳩はいいかね」  うしろで大人の声がした。鳩は短く羽ばたいて、すぐまた舗装した道の上を、首をふりながら歩いた。  少年はふり返った。茶色いコートを着た老人が、今まで少年が坐っていたベンチに腰かけていた。 「はい。そうです」  少年は照れながら真面目《まじめ》に返事をした。 「どうしてかね」 「人をこわがりません。みんなが優《やさ》しくするからです」 「君は何年生だね」 「六年です」 「ほう、いい体格をしているね。中学生かと思ったよ」 「こんど中学へ行きます」 「そうだな。もうすぐ学年がかわるわけだ」 「はい」 「東京の中学へ入るのかね」  少年は首を横に振った。 「いいえ、違います」 「何しに東京へ来たんだい。遊びかね。まだ春休みには間があるだろうに」 「用事があるんです」 「ほう」  老人はもう少年に対する興味を失ったらしく、気のない言い方になった。少年は高層ビルのほうを見て何か言いかけたが、老人の様子に気づいて口をつぐんだ。  少年はしばらくしゃがんで鳩の動きを目で追っていたが、やがて立ちあがると、ふり向いてベンチの老人にお辞儀をし、足早に歩きはじめた。老人はびっくりしたように去って行く少年を見送っている。  少年は公園を横切り、高層ビルへ向って行った。昼休みになったらしく、近くの建物からサラリーマンたちがぞろぞろと公園へ集りはじめていた。  近づくにつれて、高層ビルは少年の上へのしかかって来るように見えた。それでなくても少し小高い坂の上にあるそのビルは、もう立ちどまって背をそらさねばてっぺんを仰ぎ見ることさえできなかった。  少年の心は、恐怖感をともなう緊張でふるえはじめた。それはすべての巨大な構築物が持つ、独特の威圧感であった。その巨大さを作りだした人間の力が、見る者の心を怯《おび》えさせるのだ。そして多分、作り出した側にとっては、その威圧感すら予定した効果なのであろう。  少年の心はもののみごとにその効果にとらえられた。途方にくれ、精一杯心を奮《ふる》いたたせておかないと、ともすればビルに背を向けて坂をおりはじめかねない状態だった。  少年は怯える心を励ましながら、ゆっくりとビルに近づいて行った。近づいて見ると、それは高さばかりでなく、途方もない広がりを持っていることが判った。  濁った空にそびえ立つ超高層部分は、巨大なひろがりを持った基部の一部が突きだしたものであった。その基部は複雑に入り組んだ形をしていて、高さの違う幾つかのビルがひしめき合っているように見えた。  少年はその巨大さにみとれた。出入口が無数にあり、地下の駐車場にいたらしい高級車が、とんでもない所から地上へ湧《わ》き出して走り去って行く。綺麗《きれい》に手入れされた緑の芝生が何ヵ所もあり、そのそばに白い石でできた椅子《いす》や噴水が並んでいる。  しかもさっきの公園と違って、そうした憩《いこ》いの場所らしいところには、人影がまったくなかった。  あれは多分ただの飾りなのだ。……少年はそう思った。そういうところへ腰をおろしたりしたら、きっと守衛がとんで来て叱《しか》るに違いない。  少年は一ヵ所に立ちどまる勇気もなく、いちばん人の出入りの多そうなところへ向って、人々と同じように足早に歩いて行った。  それにしても綺麗な床だった。つるつるした石で出来たその床は、塵《ちり》ひとつ落ちていなかった。     3  超高層の基部にひろがった七、八階だてらしい建物へ入ったとたん、少年の方向感覚はまったく混乱してしまった。  何よりもまず、今まで目じるしにして来たあの摩天楼《まてんろう》が見えなくなったのが原因であったが、それにもまして、短い階段を登るたびに折れ曲る一階ロビーの道順と、巨大な柱によって来た方角がすぐ見えなくなることが、少年から方向に対する勘を奪いとってしまった。  ひどく気どった感じの洋品店や本屋などの店があり、壁際にはいたるところに煙草の自動販売機が置いてあった。  少年は緊張し切って一階を歩きまわった。一度はそのビルを突き抜けて反対側へ出たが、そこは丁度基部ビル群の中庭のようなところで、外へ出るといっそう判りにくそうだった。  それでまた最初に入ったビルへ引きかえしたのだが、アーケードを辿《たど》りちがえたらしく、いくら進んでも見憶《みおぼ》えのあるところへは出られなかった。しかも、少年がとったコースは、しまいに四段ほどの階段につき当たり、そこから先は壁の色がかわってしまった。  うろうろしていては怪しまれると思い込んでいる少年は、その壁の色がかわった通路をどんどん進んで行った。片側は窓のない壁で、片側はスポーツ用品の店や旅行案内所などが並んでいた。  その通路のはては、おそろしく天井の高い、ロビーのような場所であった。少年はそこへ出てやっと自分が基部のビル群の別な建物へ移ってしまったことに気がついた。  中央に巨大な地球儀のようなものが飾ってあり、小さく鋭い電光が、その半透明の球体の内部を間断なく走り抜けていた。さっきのロビーより人影がひどく少ない感じであった。少年はそのがらんとした様子にうろたえた。今にもとがめられそうな気がして、あわてて次の通路へ逃げ込んで行く。  少年は正規の入口らしい場所へ早く辿りつこうと焦《あせ》っているのだ。階段がありエレベーターがあり、尋ねる場所を教えてくれる受付か案内係のいる場所があるはずであった。  しかし、少年は自分の大きな誤りに気付いていなかった。少年が選んだ入口は人の出入りがとりわけ多い場所で、それはいわばこの複雑なビルの集合体の通用口とでもいったところだったのだ。そこに毎日出入りしていた関係者たちのための場所で、外来者用には、もっとずっととりすました感じの、閑散として、しかもだだっぴろいスペースが用意されていたのである。  たしかに、その巨大な建築は、弱者を恫喝《どうかつ》する目的を持っていた。案内係がいかに親切でにこやかに応対しようと、建物そのものは力を誇示しており、それを所有する人々の地位を示しているのだ。したがって、少年が本能的に選んだにぎやかな場所は、外来者を迎える機能を持たされておらず、はじめての者が来て迷おうとどうしようと自業自得と言った調子の、ひどく冷淡なしかけになっているのである。  だが、まだ小学六年生のその少年に、ビル側のそんな仕組など見抜けるわけもない。少年にとって出入口とは、一番にぎやかな感じの場所であるはずだった。内部のことならなんでも知っている人物がそこにいて、必要なことを教えてくれるはずだった。それに、そういう場所は、高層建築であるから上へ行く道がひらけているはずだった。階段があり、エレベーターがあり、人々がたえずそこを登りおりしている様子を想像していたのだ。  ところが、実際にその中へ入ってみると、人々はみな水平に動きまわっているようなのである。上の階へ行く階段やエレベーターの入口は、たくみにかくされて外部の者の目には触れにくくなっているらしい。  少年はそのことを、この巨大なビル自体が敵意をいだいているように感じた。意地わるをしているようなのである。少年はその敵意ある構造の内部をあてどなくさまよい、ますます自分の位置を見失って行った。  結果的に、少年は基部構造の一階部分をあらかた歩きまわってしまったことになる。中央に突出した超高層部分は、七つの異る構造の建物にかこまれており、それが丘の上にあるため、一階部分が少しずつ高さがくい違っているのだ。  少年は道に迷っている。しかし、かたくななまでに人に尋ねようとはしなかった。ビルの中にいる人々は、声をかけるには余りにもよそよそしかった。無数の人とすれ違ったが、少年が声をかけうるような人間は一人もいなかった。だから、行先が判らないまま歩きつづける少年にとっては、山奥で道に迷ったのと同じ状態であった。すれ違う人々はみなビルにいる生き物で、人間ではなかった。  少年は一番最後に、ひどく静かな、天井の高い広場のようなところへ出た。巨大な柱何本かに一人ずつ、警官のような制服を着た男が立っていて、まっ黒いすべすべの石で出来たかこいの中に、青いしゃれた服を着た若い女が三人ほど見えている。その先には、ずらりとエレベーターのドアが並び、階数標示灯がちかちかと動いていた。     4  バスケット・シューズに似た少年のゴム底の靴は、その石の床の広場でまったく音をたてなかった。  少年は静かすぎるのでいったんは元来た通路へ引き返そうとしたが、思い直したらしかった。  ふらふらと歩きまわって探していたのがこの場所だったらしいと気がついたからである。勇を奮って少年は黒い石でかこまれた受付らしいところへ進んで行った。青い服を着た女の一人が不審の表情をありありと浮べて、やって来る少年を見守っていた。  何本かの巨柱を通りすぎたところであった。そのかげに警官のような制服を着た男が立っていて、音もなく受付へ歩いて行く少年に気づいて、ギョッとしたように半歩踏みだした。 「おい」  ガードマンは反射的にそう言ってしまってから、 「ちょっと、君」  と言い直した。どんな場合でも乱暴な言葉づかいになってはいけない立場なのだろう。  少年のほうは、そこにガードマンがいることを知っていた。覚悟をきめていたらしく、 「はい」  とはっきりした声で答えて立ちどまった。 「どこへ行くのかね」  まだ若いガードマンは、眉《まゆ》をひそめて少年に尋ねた。 「あそこです」  少年は黒い石でかこまれた受付の女たちのほうを指さした。 「あそこというと、どこだ」 「あの黒い石でできた台のところです」 「何の用があるのかね」 「あそこは受付ではありませんか」 「うん、あそこは受付だよ。でも、何の用があって受付へ行くのかね」 「このビルにいる人に用があって来たんです。このビルに用のある人は、みんな受付へ行って受付けてもらうんでしょう」  ガードマンはなぜかくやしそうな顔になった。 「君はどこから来たんだ」 「あそこからです」  少年は自分がやって来た通路を指さした。 「受付がどこだか判らなかったので、ほうぼう探してしまったのです」 「ほうぼう探した……」  ガードマンは薄笑いを浮べた。 「ここは正面玄関だぜ。あそこから入れば受付など探さずにすむはずだ。目の前なんだからな」  ガードマンは巨大な板ガラスの並んだ正面玄関を眺めて言った。長方形の分厚い板ガラスのごく下の部分に、象牙《ぞうげ》色をした大きなノブがついていて、来訪者はそれを押して入って来るのだった。入れば黒い石でできた受付のカウンターが、ひとりでに目に入ってくるわけである。 「違うところから入ってしまったのです」 「どうしてだ。このビルへ来るなら、正面玄関から入るのがふつうだ。ふつうはみんなあそこから入ってくるんだぞ」 「でも、違うところから入ってしまったんです」 「だから、なぜだと聞いているじゃないか」 「間違えたんです」  ガードマンは少年を睨《にら》みつけた。 「間違えてはいかん」 「すみません」  少年は頭をさげてあやまった。 「でも、正面玄関がこんなところにあるなんて、少しも知らなかったんです」 「どこから入ったんだ」 「判りません」 「自分の入ったところが判らないのか」 「ええ。迷ってしまって」 「よくここが判ったな」 「ほうぼう歩きまわっている内に、ここへ出たのです」 「なるほど。あちこち歩いたんだな」 「はい」 「誰にも断わらずにか」 「お断わりするところを探していたんです。だからあの受付へ行ってこれから、中へ入ったことをお断わりしようと思うんです」  ガードマンと少年の声は、そのとほうもなく天井の高い場所に反響して、遠くまでよく聞えた。巨柱の幾本かおきに立っているガードマンたちが、みな柱のかげから顔をのぞかせて少年のほうを見ていた。  多分ガードマンのリーダーだろう。肩章に星が三つ並んだガードマンが、姿勢のいい歩きかたで二人のほうへやって来た。靴音がカッカッとよく響き渡った。 「この少年は誰だ」  ガードマンのリーダーらしいのが尋ねた。 「まだ判りません」 「聞いてみろ」 「はい」  ガードマンは今までよりずっと緊張した態度で少年に尋ねた。 「君の名前は」  少年は自分の名を名乗った。 「住所は」  少年は県名と郡名と村名と字《あざ》の名を言った。 「東京へはいつ来た」  少年は今朝六時半ごろ上野駅へ着いたと答えた。 「ここへは何の用で来たのかね」  リーダーらしいのがかわって尋ねた。幾分優しい尋ねかたであった。 「人をさがして……」 「その人はどこにいる人かね」 「あそこで聞けば判ると思ったのです。だからずっと受付を探していたのです」  二人のガードマンはお互いの顔をみつめ合った。どうするか目と目で相談したようであった。 「来なさい」  ガードマンのリーダーがそういって歩きはじめた。少年はそのあとについて行く。  少年を連れたガードマンは、受付の女たちの前を素通りして、ずらりと並んだ正面玄関のガラスと平行に、その巨大なホールの突き当たりへ進んで行った。  警備員詰所、と書いてある小さなドアをあけて、少年とガードマンはその中へ入った。  八人ほどのガードマンが、煙草をふかしたりお茶を飲んだりして休んでいた。 「チーフ。少年を一人連れて参りました」  チーフと呼ばれたのは、四十がらみの、頬《ほお》のこけた背の高い男だった。スチールデスクに坐ってじろりと少年を見た。 「どこにいた」  低い太い声で尋ねた。 「正面ホールの中です」 「日誌」  チーフはそばのガードマンにそう言った。休憩中らしいガードマンが、黒い表紙のついた厚い帳面をとりあげてページを繰り、チーフのデスクの上へ丁寧に置いた。 「名前は」  チーフが少年を連行したガードマンに尋ねる。ガードマンがいま外で聞いたばかりの少年の名を言った。  チーフはボールペンでそれを日誌に書き込み、ちらりと腕時計を見た。時間を記入するらしい。 「どこへ行こうとしていたのだ」 「はっ。受付を探していたそうです」 「おかしいな。入ればすぐ受付じゃないか」 「それが、2号通路から出て来たのです」 「なぜ正面玄関から入らなかったんだ」 「本人は判らなかったと言っております」  チーフはボールペンのキャップをして、日誌の上へ抛《ほう》りだした。 「車で来れば自然に正面玄関の前へ出るようになっているのに」 「歩いて来たんです」  少年が答えた。するとチーフはびっくりしたようにその顔をみつめた。少年が声をだしたのを不思議がっているような様子だった。 「歩いて来た」  来たァ……と尻上《しりあが》りに言い、ふんと鼻を鳴らした。 「車なら嫌《いや》でも正面玄関が判るように設計されている。必ずこの正面玄関へ出られるんだ」 「でも僕は歩いて来たんです」 「どこから」 「上野駅からです」 「嘘《うそ》をついちゃいかん」  チーフは不機嫌《ふきげん》な声になった。 「本当です」 「地下鉄にも乗らず、上野からここまで歩いて来ただと」 「はい」  チーフは少年のそばに立っているガードマンを見た。 「今朝六時半に上野駅へ着いたと言っております」 「参ったな」  チーフはそう言って部屋の中を見まわした。休んでいたガードマンたちが笑いだした。 「歩いてここへ来る人間がいようとはな」 「子供だから仕方ないですよ」 「ここを設計した奴に聞かせたいな。歩いて来た奴がいると……。歩いて来られたんじゃ、正面玄関がどこか探しても判りっこないさ」  笑わないのは少年だけだった。少年は辛抱強く次の質問が始まるのを待っていた。 「どこから来たんだって」 「上野からです」 「そうじゃない。この子の田舎さ」  連れて来たガードマンが少年の故郷の地名を言った。するとまたひとしきり笑いが起った。 「それで、ここにいる誰を訪ねて来たんだろうな」 「さあ」 「何だ、まだ聞いていないのか」 「はい」 「早く聞け。受付でどこの誰を訪ねるつもりだったのかな」  連れて来たガードマンが少年に質問した。少年は訪ねる人物の名を言った。     5  少年がその名を口にしたとたん、ガードマンの詰所は水を打ったように静まり返った。  無遠慮に大口をあいて笑っていたガードマンたちは、ばつが悪そうに黙り込んで、少年が来るまでしていたことのつづきに戻った。そっと雑誌のページをめくり、やたらに煙草をふかす。  チーフが咳《せき》ばらいをしてまたボールペンをとりあげ、白けたような表情で少年を見た。 「君は本当にその人に会おうとしているのかね」 「はい」 「わざわざ遠いところから、そのためにやって来たのかね」 「はい」 「その人と君はどういう関係か、よかったら教えてくれないか」 「あの人とダムの工事現場で会いました。おととしあの人がダムの工事現場へ来たんです。そのとき僕に、いつでも訪ねて来るように言ったのです。だから来ました」 「これから受付へ行くところかね」 「はいそうです」 「ほかに持物はないかね」 「ありません」  チーフは首をすくめるようにして仲間の一人を見た。そのガードマンは手にした煙草を急いでもみ消すと、立ちあがってチーフのデスクへ行った。二人で何かこそこそと相談をはじめる。 「別に不審な点はないようだな」  チーフは聞えよがしに声を高くした。 「問題はないと思いますよ」 「誰がどこへ行こうと、不審な点がなければとめる権限はないわけだ。この少年に不審な点があると思うかね」  チーフは少年をそこへ連れ込んだガードマンに言った。 「いいえ」  若いガードマンは姿勢を正して言った。 「では受付へ案内してやりたまえ」 「はい」  ガードマンは少年の肩を柔らかく押してドアへ向った。 「日誌には一応記録した。また迷わぬよう、まっすぐ受付へ連れて行くのだぞ」 「判りました」  少年は解放されてドアの外へ出た。ガラスのドアと四角い巨柱が並んだずっと先のほうの黒い受付のカウンターで、青い服の女たちが近寄って行く少年を見守っている。  ガードマンは靴音を響かせて受付へ歩いて行き、その前できちんと立ちどまった。 「ここが受付です」  口ごもるように言うと、くるりと踵《きびす》を返して最初いた柱のかげへ遠ざかって行く。  三人並んだまん中の女が、少し戸惑ったように頭をさげた。少年も丁寧なお辞儀を返す。 「あの、ちょっとお尋ねしますが」 「はい」  少年はここでもまたあの名を言った。 「少々お待ちください」  受付の女たちは、ガードマンの様子で何かを感じていたらしい。あらたまった態度を崩《くず》さずに、右端の女が素早く館内電話のボタンを押す。中央の女は無表情で少年をみつめている。 「はい。はあ……そうです。はい。かしこまりました」  電話をかけた女は手ぎわよく別な番号へかけて少年の来意を告げる。だが、そこでも電話は次へたらいまわしされてしまう。 「そちらへはさきほどご連絡したのですが」  五度目の相手にとうとう受付の女はそう言った。どうやらたらいまわしが最初のところへ戻ってしまったらしい。 「はい。そう願えると……そうですか。ではそちらへご案内いたします。有難うございました」  電話が切れると、中央に坐って少年をみつめていた女が、いきなり口をひらいた。 「あのエレベーターで十六階へおいでください。十六階のエレベーター・ホールに受付がございますから、そこでもう一度お訪ね先をおっしゃって下さいませ。受付にはこちらから連絡しておきます」  左端の女がノートに何か書き込んでいて、右端の女がまた受話器をとりあげた。十六階へ連絡する気らしい。みごとな連携動作であった。 「どうも有難う」  少年は鄭重《ていちよう》なお辞儀をその三人の女に向け、エレベーターへ向った。ここはあの空に向って突きだした超高層の基部に当たっているのだ。しかし、ずらりと並んだエレベーターのドアはさっきから一向に開閉しなかった。多分一般用のは別なところにあるのだろう。     6  ノンストップで十六階へあがるまでに、少年は三度、四度|生唾《なまつば》を呑《の》み込んだ。エレベーターなどに乗ったことはなかったし、耳の中が圧迫されるようで恐しかったのだ。  エレベーターは急上昇して静かに制動した。すばらしいメカニズムであった。  そのエレベーター・ホールの床には黄色っぽいプラスチックが貼《は》ってあり、うっかりすると滑《すべ》りかねないほど艶々《つやつや》とみがきこまれていた。  小さな机にグリーンの布をかけたうしろで、受付の女たちと似たような年頃《としごろ》の女が、出て来た少年に向って戸惑ったような視線を向けた。  つかつかと歩み寄った少年が訪ねる人の名を告げると、女は何か言いかけて、しまったというようにあわてて口をつぐんだ。  多分習慣的に名刺をもらおうとしたらしい。だが相手はズックの靴をはいた少年である。受付の女は少しうろたえたように立ちあがって、 「こちらへどうぞ」  と廊下を歩きはじめた。小さい横文字を書いたドアを幾つか通りすぎたあと、女は何も書いてないドアをあけた。中には応接セットとゴムの鉢植《はちう》えがあって、床にはうす茶色のカーペットがしいてあった。 「しばらくお待ち下さい」  女はそう言ってドアをしめた。少年はコートを脱ぎ、丁寧に畳んでから、どの椅子に坐るべきか少し考え、ドアと向き合った位置にあるソファーに体を沈めた。  すぐ誰か来るような感じだったが、仲々やって来なかった。廊下を通る足音を聞くたび、少年は緊張して坐り直した。  二十分近く少年は待たされた。そして何かせかせかとした様子でその小さな応接室へ入って来たのは、五十年輩の小柄な男であった。濃紺の背広を着て、緑色のネクタイをしめ、背を丸めてうつむいて早口で喋《しやべ》る男だ。 「あの方はなかなか会いにくい人でしてな。私らでも月の内に一度もお顔を拝見しないことがあるんですよ。それにしてもまた、いったい何のご用であんな山奥……いや、遠いところから出て来たんですか」 「母が病気になりました」  少年は悲しそうな顔で言った。 「おやおや、それは大変なことで。それでは急ぐんでしょうなあ」 「すぐ帰らないといけないんです」 「それで、お父さんは……」 「いません」 「おやおや、それは大変なことで」  最初の言い方と少し声の高さが違うようであった。 「かわりに誰か来る人はいなかったんですか」 「僕でないとあの人は判らないんです」 「ほう君でないとねえ」 「ええ」  男はちょっと考え込んだ。 「ええと、もう少しここにいてくれますか」 「はい」  男はせかせかと立ちあがった。 「ちょっと、あの……」  男は両手をややこしく動かして見せ、 「つまり、相談ですわ」  アッハッハ……と無意味に笑い、男は出て行った。  今度は三十分待たされた。  その間、あの小柄な男はデスクからデスクへと社内をとびまわっていた。 「どうも只事じゃありませんな、あれは」  部長のところでそう言っていた。 「ええ、お父さんはいないというんですよ。母親というのが急に重い病いにかかりましてな」  部長と一緒に常務のところでそう言った。 「何しろ、あの方も少年の顔を見ないことには判らんらしいのです。ええ、少年がそう言っています。まったく弱りました。これはへたをするとえらいことになりますぞ」  部長や常務たちと一緒に、社長の前でそう言って額の汗をふいた。 「そういう件を持ちこまれてもわが社は困るんだ。処理のしようがないじゃないか」  社長は額に青筋をたてた。 「でも、上の方のプライベートな事件を円満に解決すれば……」  常務の一人がアドバイスした。 「とんでもない。勝手に処理してあとでどんなことになるか、君たちはそれを保証できる気か」  社長は語気荒く言った。 「よそへ移せ。手早くこの件から縁を切ってしまえ」 「そうできれば、それにこしたことはないと思いますが」 「よし、儂《わし》が手を打つ。まったく君らは肝心な時には何も動けんのだから」  社長は受話器をとりあげた。     7 「ご案内しましょう」  あの小男が少年に言った。 「よそへ行くんですか」  少年はコートをとりあげて尋ねる。 「えらい方ですからな。ここにはおいでにならんのです」 「どこにいるんですか」  小男は首をかしげた。 「さあ。私にもよく判らんのですが、まあそこのところはまかせておきなさい。この会社よりずっと上の会社が知っているはずです。さあさあ、コートなんか着ないでいいから。ここはビルの中じゃないですか」  小男は舌打ちするように言ってドアの外へ出た。さっきのエレベーター・ホールを通り抜け、反対側の廊下をどんどん進んで行く。 「大きいんですね。さっき迷子になってしまいました」 「そりゃ大きいですとも。君には大きすぎるくらいだなあ」  小男はせかせかした足どりで進む。 「おじさんは、この中で迷子になりませんか」 「私が……迷子になんかならん」  一緒に歩いていると、その小男はつい少年に対する言葉づかいを乱してしまう。鄭重に扱うべきだとは思っているのだが、いつの間にか小学生に対する大人の言葉になってしまうのだろう。 「ほら、ここに階段があるだろう」  小男は短い階段のところで言った。廊下がそこから少し低くなっている。 「これで別な建物へ入ったわけだ。今いたところは超高層の十六階、こっちは二十階だてのビルの十六階」 「どうしてこんなにややこしいのです。まっ四角にたてれば迷子にならないですむのに」 「誰かがこんな風に設計したのさ。なぜだか知らんよ。まっ四角だとかんたんすぎて設計がうまいようには見えないからかな」 「こっちのほうへはよく来るんですか」 「ああ、ちょいちょいね」 「それじゃ迷子になりませんね」 「うん、まあな」  小男はエレベーターのところでとまった。 「ここから九階へおりる」  ボタンを押して言った。 「かえりも連れて来てくれますか」 「なぜだ」 「一人じゃさっきのところへ帰れません」 「帰る必要はないんだ。今度行く会社で君とお別れだ。あの方に会うんだろう」 「ええ」 「あの方はこの次行く会社にいらっしゃるかもしれない」 「もしいなかったら」 「その次の会社だ。みんなこのビルの中にある会社さ。向うの会社にも私みたいな役の人がいて、その人が君を案内してくれるよ」 「あの人はえらいんですね」 「そうさ。私らとはまるで階層が違うお方だ。それにしても、君ら母子は随分苦労をしたんだろうね」 「苦労なんてよく知りません。ただ貧乏なだけです」 「しっかりしてるな、君は」  ドアがあいてエレベーターの中へ入った。少年はしまるドアをみつめて唾を呑み込んだ。 「お母さんは綺麗な人なんだろうね。いや、こんなことを聞いてはぶしつけだったな。聞き流してくれ。たのんだよ」 「ええ。でも、お母さんは綺麗ですよ。みんなそう言っています」 「そうだろうそうだろう。でなければ、ああいう何不自由ないお方がだな……」  小男は早口で言い、急にやめて首をすくめた。 「ほら九階だ。早いもんだろう」 「エレベーターって、きらいです。気持が悪いから」 「馴れればどうということはない」  廊下へ出てまたしばらく行くと、また受付があった。小男はそこの女と顔見知りらしく、 「君、ちょっとこの坊やを預ってくれ。すぐ戻るから」  と言って少年を待たせ、そばのドアへ入って行った。今度の会社の壁にはいろいろなポスターが貼ってあった。少年はそれを珍しそうに眺めている。  ドアの中では何かもめているらしく、ときどき高い声がした。  やがてドアがあいて、小男と、もう一人似たような年輩の男が廊下へ出て来た。 「困りますよ。ここから先は私の受持じゃないんだから」  小男は口をとがらせていた。 「そう言わんで……連れて行くだけじゃないか。君のほうはもうあの子とからんでしまっている。お宅の社長もうちの社長も立場は同じさ。あらためてうちをからませるより、ここのところはすでにからんでいる君のほうで処理してもらわなければ……な、判ってくれよ」 「うちの社長に私が叱られます。一存では行きませんよ」 「それなら心配ない。いまうちの社長がお宅へ電話をしているはずだ。よく言って置くよ」  小男は言い敗かされて大きな舌打ちをした。 「やれやれ。とんだばば抜きにまきこまれたな」  少年を持て余し気味にみつめ、 「仕方ない。次の会社まで送ろう」  と言った。     8  少年を案内する小男の態度から、自信が急速に失われて行った。  次の会社も少年を引取ることをこばみ、その次の会社でもことわられた。しかも会社をひとつ移るたび、その小男の会社より階層があがるらしく、小男の抗議はかんたんに蹴《け》られてしまう。半ば命令口調で少年を次の場所へ連れて行くように言われるのだ。 「おじさん、僕と一緒で迷惑ですか」  少年が見かねたように言ったのは、小男が廊下の標識をたずねたずね歩いているときだった。 「迷惑にも何も、私だってこんなところまで来たのははじめてだ。どうもこの辺の案内標識は不親切でいかんな」 「迷子になったんですか」 「まださ。ひょっとすると迷子になりかけているのかな。私は知らんぞ、もう」  小男はやけ気味に言った。 「嫌《いや》だな、迷子は」 「こっちだこっちだ。ほれ、ここにちゃんと書いてあるだろう」  ひとけのない廊下を、小男はまた足早に進んで行った。 「あれ……」  急に立ちどまった。プラスチックばりだった廊下が、そこから急に分厚いカーペットにかわっているのである。例の建物が変ったことを示す、短い階段のところであった。 「標識を読み違えたかなあ。いや、そんなはずはない。行って見よう」  分厚いカーペットを踏んで行くと、いきなり声をかけられた。 「おい、君……」 「はっ」  小男はすくんだように立ちどまった。少年がふり向くと、仕立のいい服を着た男が、ドアを半分あけて睨んでいた。 「どこへ行くのかね。ここは君らの来る場所ではないはずだがな」 「ええと、その、標識どおりに参りましたのですが、受付はどちらでしょうか」 「受付。受付へ何しに行くんだね」 「あの、この会社をおたずねしたもので」 「おかしいね。だったらちゃんとエレベーターであがってくるはずだがね。そうすれば嫌でも受付が目に入るはずだ。ちゃんとした順序で来たまえよ」  その男は左手を振って追い返す仕草をした。 「は、どうも申しわけありません」  小男はおろおろと引き返しはじめた。 「な。どうも少し変だと思ったのさ。やっぱり一階へ行ってあらためてあがって来たほうが無難だな。それにしても、気をつけないと、このビルは大きすぎて迷子になってしまうぞ。私ら出世しそこなったから、行けない場所がたくさんあるんだ。やはり人間は出世せんとな……判ったかね、坊や」  あの境いの階段をそうぼやきながら通り抜けると、その左手にエレベーターのドアがあった。 「おや、こんなところにエレベーターがあったか」  ボタンを押してしばらく待つと、赤い下向きの矢印が点滅してドアがあいた。 「下へ行こう、下へ。ちゃんとした入口から入らないとだめなんだよ」  今度のエレベーターは今までのよりずっと早かった。 「こいつは早いな。恐しく早いぞ」  小男は狭い箱の中で怯えたように言った。 「いかん、ロビーにはとまらんらしい。うっかり一番下のボタンを押してしまったよ。癖《くせ》になっているのでね」  エレベーターは鈍《にぶ》い唸《うな》りをあげておりて行った。やがてヒューッという音をたて、静かに減速してとまった。 「やれやれ」  そう言いながら小男はドアの外に出た。 「ありゃ。ここはどこだい」  巨大な機械がうずくまっていて、そこからたくましい脈動がつたわって来た。どこかでピーッという笛の音がする。 「一番下はロビー……いや、駐車場まで行くエレベーターもある。でもここは」  どこかすぐ近くを、電車が走り抜ける音がした。 「地下鉄かな」  小男が首をかしげたとき、また笛の音がした。 「おい君たち」  体格のいいガードマンが二人ほど走り寄ってくるところだった。 「七階で非常用のエレベーターをとめたのは君たちか」  喚《わめ》くように言った。 「非常用……」  小男はふり返って言った。 「ちょっと警備本部まで来てもらおう」 「いえ、私は何も」 「とにかく来てもらう。それが規則なのでね」 「あの、このとおり身分証明も……いや、デスクへ置いて来ました」 「子供づれで遊ばれたんじゃ、こっちが迷惑するんだよ」 「いえ、この坊やは或るえらい方のお子さんなんです」 「この子がか。とてもおえら方のお子さまには見えんがね」 「どう見たって田舎の子じゃないか」  二人のガードマンはからかうように言って笑った。 「それが、この子の母親が……」  小男はあの名前を言った。 「ほう、落しだねかい。なあ坊や。このおじさんが言うとおりかい。お母さんはあの方の彼女で、君を田舎で生んで育てていたのかい」  少年は顔を赤くして叫んだ。 「ちがいます。僕のお父さんはダム工事の事故で死んだんです」  ガードマンは勝ちほこったように小男を見た。 「そんな……」 「ちょうどあの人が視察に来ていて、事故でお父さんが死んだとき、僕とお母さんに言ったんです。困ったことが起きたらいつでもたずねておいでって……」 「美談じゃないか」 「だから来たんです。お母さんは心臓の病気で死にそうなんだけど、ダムのお医者さんじゃなおせないんです」 「ばかばかしい。坊やはそんなことをまにうけてやって来たのか」 「そうですよ。よく新聞にも写真がのるえらい人だから、お医者さんをダムへよこしてくれるでしょう」  小男はため息をついた。「できないよ。してくれるもんか。あの方はよくそういうことをほうぼうでおっしゃるが、してなんかくれるものか。坊や、おかえり。こんなところで愚図愚図してないで、早く病気のお母さんのところへ帰るんだ。だいいち、私らにはあのお方がどこにいらっしゃるのかさえ判らないんだ。一緒に歩いてよく判ったろう」 「まあ、とにかく警備本部へ来なさい。そこでゆっくり話合おうじゃないですか」  少年は泣きはじめた。今朝からこらえにこらえた孤独感が、いっぺんにふきあげた感じであった。 「坊や、泣くんじゃない。泣くんじゃないよ」  小男も泣き顔で言った。     9  山奥のダム工事現場で、一人の女が息を引きとった。少年が大きな果物籠《くだものかご》をかかえてそこへ戻ったときは、その母が死んでからまる一日たっていた。少年は泣きながら、その見舞の果物をひとつひとつ、少し水のたまったダムの底へ投げ棄ててしまった。少年は果物を投げるたび、もう二度と東京へは行かないと誓っていた。  あの人物には、少年のことは遂に報告されなかったらしい。ただその人物へと積み重なった階層のどこかに、気のきいた男が一人いて、少年に見舞の果物籠と上野までの車を手配してくれたらしい。  ただしその人物が誰だったかは、あの小男にも判らなかった。小男はあと何年かで停年退職するはずである。 [#改ページ]   悪魔の救済     1  多田《ただ》の家は渋谷から出ている私鉄の井《い》の頭《かしら》線で三つ目の駅の近くにあった。勤め先は室町《むろまち》だから、毎日その電車で渋谷に出て地下鉄に乗りかえ、日本橋の次の三越前で降りて三分ほど歩くことになる。  駅の名は池《いけ》の上《うえ》という。ひとつ手前が駒場東大前《こまばとうだいまえ》という駅で、だから池の上あたりにも学生の下宿が多い。  下宿と言っても、今は食事の面倒までみる時代ではなく、要するに安アパートなのである。次の駅は下北沢《しもきたざわ》で、地名のとおりこのあたりの低地に当たっているが、池の上はそれに隣接した台地の上になる。  下北沢はいまだにその昔の闇市《やみいち》めいた雰囲気《ふんいき》を残す気さくな町で、細い路地が入り組んだ商店街は下町風の感じだし、周辺にも若い連中が住む安アパートが密集しているが、それでいてどこか山の手の趣きが強いのは、そうした庶民的な住宅地帯と背中合わせに、とほうもない高級邸宅街が存在するからであった。  たとえば、池の上、下北沢の両駅からほぼ同距離にある南の一画には、元の総理大臣の私邸があり、現職時代には日夜二十人近い警官がその界隈《かいわい》を警戒していたものだ。  近くに江戸時代から有名な淡島《あわしま》神社があって、渋谷から環状七号線を結ぶ道路があり、淡島通りと呼ばれている。  そのあたりは区の境界がかなり入り組んでいて、渋谷方面から来ると、いちど目黒《めぐろ》区の北端部を通過しなければ世田谷《せたがや》区へ入れない。東大の宇宙航空研究所あたりが、北に細く突きだした目黒区のはずれで、多田が住んでいる池の上あたりは、そのすぐ西どなりということになるのだ。  下北沢はとにかく、ひとつ手前の池の上周辺は、道もごく狭く、夜更《よふ》けに車で帰宅するときなど、一方通行の暗い道をわけ入らねばならないので、とかくタクシーの運転手にきらわれがちであった。  多田は家族に常日頃、万一のことがあったら線路づたいに東大のほうへ避難するよう言い聞かせていた。そういう心配をするほど、木造家屋の密集した、火に弱そうな一帯なのであった。  例の邸宅街のほうは、その点安全なようである。たとえ隣家で火が発したとしても、濃い植込みと厚く高い塀《へい》、それに広大な敷地が彼らの生命や財産を守ってくれるだろう。だが、そのかわり、火に追われた貧乏人たちに対しては、門を堅くとざしてしまうはずだ。学校ならばその点心配はないように思える。多田はときどき、大災害が起ったとき、安全な逃げ場が近くにあるということを感謝したくなる。ことに、自分の留守中にそういう事態が起って、江東《こうとう》方面のような場所に住んでいたとしたら、もうすべてをあきらめるよりあるまいと思うと、現在の住所をかえる気はとても起らなかった。  いつの頃から多田がそういう心配をしはじめるようになったか、どうもその時期については、はっきりとしないようである。ただ、彼は幼い頃からこの前の戦争のときの、東京大空襲の話をよく聞いており、それに関連して、もうひとつ前の東京の大災害である関東大震災のこともたびたび聞かされていた。  そのふたつが、彼の心に大火に対する準備をさせ続けていたのかも知れない。江戸の昔とは異り、今では庶民の一人が不注意で発した火が、それほどの大火にはなり得なくなってしまっている。そのかわり、庶民にはどうしようもない力で、とほうもない火の災厄が襲いかかって来るのだ。  それに対しては、もう逃げるよりテがないのだ。逃げて、運がよければ黒焦げにならずにすむ。そのためには、あらかじめ逃げる先を考えておかねばならないのだ。いつの間にか多田は、常に逃げ場を考えておく人間になっていた。 「グラッと来たら一分間動くな。腰を抜かしていろ」  ことし小学校の四年生になる長男の正男《まさお》が案外運動神経に恵まれていて、地震のたびいの一番に表へとびだすのを、多田はそう言っていさめている。 「家なんて、一度にペシャンコになるもんじゃない。半分くらいしかこわれないものなんだ。家の下敷きになって死ぬようなことはそう多くないんだからな」  多田の家庭では、平和な夕食の時間にでも、突然そういう話題がとび出す。それに対して妻の由子《よしこ》も不快な反応は示さず、 「そうよ。ガラスが割れたり、屋根瓦《やねがわら》や看板がおっこってきたり、電柱の上にあるものなんかだって、ドスンとおちて来るんですからね」  と夫に同調している。 「学校にいるとき大地震になったらどうすればいいの」  そう尋ねる娘の良子《りようこ》は、来年中学生になる勉強のできる子供であった。 「学校を離れちゃいけない。学校は運動場もあるし、わりと安全なんだ。そのうちお母さんか誰《だれ》かが連れに行くから、それまでじっと待っているんだぞ」  他人が聞いたら笑いだすかも知れないが、多田の一家はそういうときいつも本気であった。     2  前触れというものは、たいていの場合あとになってそれが存在したことがはっきりする。  いま、大災害の前触れは、あるようでないようで、もっとも正確に言えばはっきりしないということであろう。  そういう中で、多田のようなありかたは多少異常なのかも知れない。巣食っている木が流された虫のようなもので、たとえ木自体が濁流の中にのみ込まれてしまったとしても、巣の中に水が入ってくるまで、虫にとってそれは災害ではないのだ。そして庶民とはたいていの場合、木に巣食った虫のように生きている。  だから、多田のような人間は、いつも巣の外をのぞいている変わり者の虫であり、一般的な虫から見れば、おかしな奴ということになる。  かと言って、多田が次に来る大災害を正確に見とおしているかと言うと、そうではない。それは多田の生存本能にピリピリとつたわって来る危険信号だけであって、妻子を東大構内へ逃がさねばならぬ災害が、果して地震なのか戦争なのか、そこのところは少しも判っていなかった。  しかし、それがやって来ることを、多田はまったく否定できないでいるのだ。小松左京《こまつさきよう》が日本沈没と言えば、まさかと苦笑するだけの理性は持ち合わせている。これはフィクションなのだと、たのしみながら読む健全さはある。だが、その何十分の一か、何百分の一かの強さの地震については、たとえようもなく怯《おび》えているのだ。  彼がもっぱら地震による火を想定しているのは、それにくらべたら戦争はもっとずっと遠い先のことのように思っているからである。  また、異常気象による世界的規模の飢餓《きが》や、石油危機が例を示してくれた物不足、極端なインフレ、暴動による無警察状態……そういうものは来年にもといったように、ごく身近にひそんでいるような気がしてならないのであった。  おそれているものは、予想よりずっと早くにやって来るものだ。  弱者の常として、多田はそれを経験的に知っていた。しあわせは目の前まで来て消えるもの、不幸はいきなりうしろからぶつかってくるもの。そう思い込んでいる。だからこそ、うしろからいきなりぶつかられないよう日頃の注意を怠らないのかも知れない。  突然の不幸については、あらかじめ多少の覚悟はしている。  たとえば子供たちの交通事故だ。こういう時代、その悲劇が自分の一家だけ避けてとおると信ずるのは、余りにも楽天的であった。会社で伝票に何気なく数字を書き込んでいる瞬間、それは起っているかも知れない。覚悟していても、起ってしまえば嘆きの量にかわりはないが、悲劇が起りっこないと思い込んでしまうほどの無神経さはなかった。  同じ危険に多田自身さらされているわけだが、もしそういう事故に会ったら、ひと思いに即死であるほうがしあわせだとも思っている。廃人として生き残れば、家族の悲惨を眺《なが》めなければならない。同じように、子供や妻にも、一生寝たきりで生きのびて欲しくなかった。どうせ事故に会うなら、軽傷か即死のどちらかであって欲しいのだ。つまり、多田の覚悟とはそういうことであった。  では、多田が現在のくらしに常に不安と不満を感じているかと言えばそうでもない。むしろ、彼は幸福で満ち足りていたと言える。もちろん、経済的には古い四部屋の家を借りているくらいだから、まだまだ充分には程遠いが、なんとか人なみには暮らして行けるし、この豊かな時代に大した乗りおくれもせずついて来れたことを、何かに感謝したいほどなのであった。  要するに、多田のそうした不安とは、弱者にありがちな、満ち足りた時に対する疑惑であるらしかった。  こんなうまい汁《しる》をいつまでも吸っていられるわけがない。いつまでもこんな満足した状態が続くはずがない。……職場を愛し、妻子をいとしいと思い、大した波風も立たぬ家庭でぬくぬくとあるじ面《づら》をしている自分にふと気付く瞬間、多田は言いようのない不安に駆られるのであった。  きっと破滅が来る。近い内に世の中がひっくり返って、とほうもない混乱に叩きこまれるに違いない。そういう確信に近い予感がしているのだ。そしてそれは、たえず多田の心の底に執拗《しつよう》ないらだちを湧《わ》きたたせている。表面が平和で満ち足りているだけに、かえって深刻ないらだちであった。  対処しようがないのだ。  理想を言えば、人家の密集していない田園地帯のようなところに相当な広さの土地を獲得し、耐震耐火を第一に設計した頑丈《がんじよう》な家を建てて住み、少なくとも一年分の食糧と燃料、医薬品などを備蓄し、自家発電装置に井戸があれば、いくらか多田の不安は解消されることであろう。  しかし、それはいくら多田が現状に満足しているとは言え、所詮《しよせん》彼の経済力では夢のまた夢であった。  多田の年収は平均よりやや上といった程度で、勤めている会社にしたところで、やっと三流の上くらいなものなのである。結局、心の底に不安といらだちを抱きながら、表面的には毎日をほどほどに満ち足りた男として、平凡に暮らして行くよりないのであった。     3 「どうも、何もかも騰《あが》りすぎるようだ」  昼休み、会社のあるビルを出て日本橋の裏通りにある小さなレストランへ入った多田は、同僚の柴野《しばの》から今さららしくそう言われた。 「うん」  U字形のカウンターに二十人ほどのサラリーマンがとりついて、カレーやハンバーグを黙々と食べていた。多田は前に置かれたコップのぬるい水を飲んで生《なま》返事をした。その席へつくのに、十分ほど若いサラリーマンたちにまじって行列を作り、順番を待っていたのだ。 「おかしいな、どうも……」  柴野はつぶやくように言った。 「なぜだい」 「ガス、電気、水道、運賃、そして米。まわりの物価があがってくれば、そういうものもあげざるを得ないのは判る。しかし、何かおかしい」 「だから、どうおかしいと言うんだ」  柴野は自嘲《じちよう》ぎみに笑った。 「今の世の中の仕組じゃ、もうそうした基本的なものの値段があがるのを抑えておくことはできないんじゃないかね」 「そうかも知れない。そういうものはタダでもいい社会だって、作ろうと思えば作れるんだからな」  多田がそう言うと、柴野はわが意を得たりと彼のほうへ向き直った。 「税金を払っているんだからな。そういうものをタダにするから、給料は今の何十分の一にする。……みんなが平等にそうされるのなら、俺《おれ》は反対しないつもりだ」 「要するに共産主義か」  すると柴野は強く首を横に振った。 「いや違う。あれで何とかなると思うなら、とっくに入党してるよ」  昼休みの話題にしては堅い話になりそうだったが、バサバサのキャベツにとりかこまれた黒こげのハンバーグとライスの皿《さら》が二人の前に置かれて、それきりになった。  多田はまだ外に並んでいるサラリーマンたちを意識しながら、急いでそれを食べはじめた。 「米だがね」  食事のおわりごろ、柴野がまた言いだした。 「日本人にとって、こいつの値段はちょっと特別なんじゃないかな」 「特別と言うと……」 「たとえば、この一人前のライスが原価で十円あがったとする。今まで五十円だったとして、モトが十円あがったから、十円あげて六十円にする。……それでいいもんだろうか。俺はそういうようにはならないと思うんだ」 「たしかにそれはそうさ。今までの五十円に対する利益率がある。値上りした十円にも、その利益率をかけなければならないだろう」 「それもそうだが、俺が言うのはもっと別なことさ。主食というものは、そんな単純じゃないと思うんだよ。日本人はこれを食って生きてるんだ。利益なんてゼロでも、こいつは食って行かなきゃならない。収入がないからと言って、飯を食わないですむかい。すむわけはないさ。つまり、米っていうのは生きるってことさ。日本人にとって、生きる値段の最低が米の値段なんだよ。お前の命の最低価格は、って聞かれたら、自分がこれから食わなければならない米の値段の合計を言うはずなんだよ。そうじゃないかなあ」 「なるほどね」  多田は皿に残ったキャベツとソースをかきまぜ、最後のひと口の飯の上にのせた。まわりの客がバタバタと席を離れ、店の前に並んでいた客の列が消えた。 「つまり、自分の命が十円あがったんだ。一食につきだよ……。一日の命の値段にすれば三十円だ。いや応なしに自分の命の値段があがったんだ。あがった分だけとり戻せばいいってのはおかしな考え方じゃないか。食わずにすむものじゃない。イコール命なんだからな。米価をあげたということは、日本人一人一人の命の値段をあげたということになるじゃないか。人生の計算はそこからまたやり直さなくてはならないだろう。四畳半に住んでる奴は六畳、2DKの奴は3DK。高くなった命だ。すべてにレベル・アップしなければ納まるまい。いや、これは計算じゃない。いわば心理的な方程式さ。しいて計算するなら、足し算じゃなくて掛け算だよ。そして、米ほどじゃないが、電気、ガス、水道、それに交通費……みんなそういう掛け算的要素を持っている。役人や政治家は、判らないのかわざとそうするのか知らないが、そういう感情的な問題には気づかない顔をしている。俺は、五十円のライスが原価でいくらかあがったら、米の質や盛るうつわなどをよくして、一気に百円にしちまおうという気持は、どっちかというと当然のような気がするね」 「つまり、君が言いたいのは、このまま行くと物価は天井知らずと言うことか」 「まあそうだ。だが、天井知らずでどこまでもあがるとは思えない。どこかにパンクする点があるはずだ。その点へ近づくか超えるかしたとき、世の中はひっくり返る」 「米の値段にしていくらの時だと思う」 「さあな。そこまでは判らんよ」 「革命か」 「それも判らん。だが俺には、今の世の中を動かして来た仕掛けが、ギシギシ言いはじめているのが聞えるような気がする。もうこれはポンコツだよ。俺が船にいる鼠《ねずみ》だとしたら、とっくに逃げ出してるね。だが、あいにく俺は鼠じゃないし、日本という国からも船みたいに簡単に逃げ出せはしない。明日は取引先とゴルフだ。帰りは湯河原《ゆがわら》に泊って接待だしな。逃げ出せないってことは、そういうことなんだなあ。ギシギシ軋《きし》む音が聞えていても、のほほんとそれに乗っかっているよりしかたがないんだ」  多田は自分以外にも多くの人間が、破滅の予感に怯《おび》えていることを痛切に感じさせられた。 「行こう」  二人はカウンターから離れた。たしかに昼飯はぞっとするほど高くなっていた。     4  その日、多田は午後九時ごろ地下鉄で渋谷につき、井の頭線に乗りかえた。三つ目の池の上で降り、踏切を渡って家のほうへ向かったが、商店街がいつもより暗い感じで、シャッターをおろした店が多かった。  従業員慰安のため臨時休業。多田はちらりとそんな貼り紙を見た。  平日だというのに豪勢なものだ。つくづくとそう思い、着飾った店員たちがどこかのホテルのダイニング・ルームで、ステーキを食べたりワインを飲んだりしている有様を思い泛《うか》べた。  昔なら華族さまのすることだぞ。ふと心の中でそうつぶやいてみると、世の中の消費水準がとほうもなくあがっているのを実感した。山奥のじいさんばあさんが海外旅行に出かける時代だ。週休二日、有給休暇……多田などは滅多に有給休暇をとることもないが、有効にとればかなりたのしいことになるのだろう。……豊かな時代だ。多田はそう思い、心から感謝したい気分になった。  そうした気分のまま、いつもよりうす暗い道にたちどまり、シャッターをおろした店々を、いまさらのようにふり返って見た。同じ電車から降りた人々が、多田の前を黙々と通り過ぎて行く。  多田は、いつも見なれているはずなのに、それまでいっこうに気にとめなかったものが自分の頭の上にあることに気づいた。  それは、幅四メートルほどの商店街の道路の真上中央に飾られた、四角い標識であった。正方形の対角線が垂直方向になるように作られたその黄色い標識には灯りが入っていて、黒い汽車の絵がくっきりと浮きあがっていた。この先に踏切があることを示す標識である。  多田はつくづくと、その汽車の絵を眺《なが》めた。今はもう絶滅したにひとしい、蒸気機関車を図案化したものである。  まるで絵本の絵だった。その図案化された蒸気機関車は、懐かしくもまた子供っぽく、悠長《ゆうちよう》で悪気のない雰囲気を漂わせている。採用したのはいずれ役所の人間なのであろうが、その人物がそこまで意図したかどうかは別にして、交通戦争などという兇暴なものは、どこか遠くへ押しやられている。  多田は好ましいと思った。そしてそれ以上に、こんな小さな駅の駅前通りにまで、童心|溢《あふ》れる標識を、しかも光源まで内蔵させて設置できる世の中というのは、やはりたぐいまれな豊かさと言わねばならないだろうと確信した。  多田はかなり長い間、そこで上を見あげていたようだ。ふと気がつくと、白っぽいジャンパーを着た彼より小柄な男が、すぐそばに立って多田の視線の先を追い、不審そうに小首をかしげて多田の横顔をみつめた。 「やあ……」  近くの商店の者らしいと感じた多田は、照れて頭に手をやった。 「あれがどうかしましたか」  その小柄な男は生真面目《きまじめ》な態度で言った。 「いや……面白い絵で……今まで気がつかなかった」  多田はあいまいな返事をした。 「はあ、なるほど」  男は要領を得ない顔で頷く。よく見ると、古手の工員か小さな商店主、それでなかったら個人タクシーの運転手といったタイプであった。 「どうも失礼しました」  多田は愛想よく笑って頭をさげ、家へ向かった。別にそれほど気恥かしいことだったとも思わず、依然としてその標識が持つ豊かさを考えていた。  石の塀のある家の角を曲がるとき、白っぽいジャンパーの男がすぐうしろを同じ方向へ歩いて来ていたのに気付いたが、それもすぐ忘れてしまった。 「ただいま」  古い家なので、玄関の戸はガラスのはまった格子の引き戸であった。ぴったり一坪の玄関の左側に傘立《かさた》てと下駄箱。傘立てには野球のバットと黄色い傘が二本。コンクリートの床にはズックの靴とサンダルが大小ふたつ。それに当年七歳の継男《つぐお》が履《は》く、テレビ漫画の主人公の顔がついたビニールの靴。 「おかえりなさい」  由子が障子をあけた。時間は九時ちょっとすぎ。早くもなければ遅くもない帰宅であった。  玄関の次は三畳で、正男の机が置いてある。右の襖《ふすま》をあけると六畳の茶の間だ。 「おかえんなさい」  正男と継男が同時に言った。十八インチのカラーテレビはSF映画をやっていて、二人はそれに夢中らしかった。 「良子は」 「お部屋で勉強」  由子が微笑して言う。 「正男、お姉ちゃんを見ならえ」 「俺、もう勉強しちゃったもん」 「テレビばかり見て……」 「だってこれ、SFだよ。ずっと待ってたやつだもん」  正男は正当性を主張する。多田はそれ以上言う気はなかった。 「ずいぶん金をかけた映画だな」  自分も一緒に坐《すわ》りこもうとすると、由子が言った。 「お洋服、着がえて……」  多田は立ちあがり、となりの六畳へ入って服を脱ぎはじめた。 「あれじゃ子供が夢中になるのも無理ないな」 「良子のお習字が展覧会に出るんですって」 「パジャマでいい。……ほう、そうかい」 「見に行ってやらなきゃいけないわよ」 「そうだな」  多田は手早く着換えた。子供たちと一緒に映画をたのしみたかった。  彼の家では、世間で言われているほどには、親子の関係に溝がなかった。親子の断絶などというのは、親の側の態度に百パーセントの責任があると思っている。  事実多田は子供たちとよく遊ぶ父親であった。正男のピッチャーぶりをよく見に行って、あれこれアドバイスしてやっているし、良子の友達の名も、言われればあの子かとすぐ判る。継男に至ってはまるで父親をこわがらないので厄介なことさえあるほどだ。 「こいつはずいぶん製作費をかけた映画らしいな」  着換えて茶の間へ坐るとすぐ、多田はそう言った。正男と話すとき、多田は決してレベル・ダウンをしないことにしている。それがたくまずしていい教育になると思っているのだ。 「そうだよ。豪華大作だもの」  正男はいっぱし大人ぶった答え方をした。長男はそれでいい……。多田は寛大な微笑で正男を見つめた。その膝《ひざ》へ、もうずしりと重くなった継男がのって来る。 「継男ちゃん。お父さんはご飯よ」  由子が来て注意した。ちょっと焼いてあたため直した串《くし》カツの皿と、ビールが一本盆にのっていた。 「いいんだもん」  継男は膝からおりない。 「いけません」 「いいじゃないか。重くなったらどかすよ」  多田は継男に甘い。 「電子レンジがあると、あたため直すのに都合がいいんだけど」  由子は衣《ころも》の焦げた串カツのことを言った。 「お父さんはいつも帰りが遅いから……」  正男はその声がうるさいらしく、四つん這《ば》いになって、テレビのツマミを少しまわした。音が大きくなる。     5  外の道でモーター・バイクの走り去る音がした。蒲団《ふとん》は床の間を頭にして敷いてある。 「みんなもう寝たわ」  となりの茶の間で由子の声がした。蛍光灯《けいこうとう》を消し、襖をしめて、するりと多田の蒲団へすべり込んで来る。 「良子はまったくいい娘だなあ」  腹這いになって煙草を吸いながら、多田はしみじみと言った。 「もったいないくらいだ」 「わたしたちに……」 「うん」  多田はあいまいに答える。実はどんどん一人の女に成長して行くのが惜しいという意味で言ったのだ。そうなればいずれ恋をする。ひょっとすると……いや、ひょっとしなくても、正式に結婚する前に、どこかの男に抱かれてしまうだろう。こういう世の中では、それを無下《むげ》に悪いときめつけるわけにもいかなかろう。父親としては覚悟をしておかねばならない。 「美人になるな」 「そうなのよ」  由子は右半身を腹這いになっている多田の体にのせるようにして、珍しく煙草を欲しがった。多田からとりあげて、ひと息だけ深々と吸い込む。 「今の子たちは早いから大変。あの子、もうモテモテらしいわ」  由子は得意そうだ。多田は舌打ちした。 「モテるって、男の子にか」 「六年だから、学校にはもうあの子たちより上級生はいないでしょう。でも、中学の男の子なんかが、もうなんだかんだ言うらしいの」 「あいつは結構おしゃれだしな。でも、同級生の男の子なんかはどうなんだい」  由子は笑った。 「ばかね。あのくらいから当分の間、女の子のほうがずっと年上みたいになるのよ。六年生同士じゃ、男の子はまるで子供……」 「早いなあ」 「ほんとに今の子は……」  多田は煙草をもみ消してあおむけになった。長女がもうそんな世代に突入しかけていることを早いものだと感じたのだが、由子はマセているという意味にとったようだった。  その由子が無言で仕かけてきている。近頃由子はそれを、自分の所有物なのだから、どう扱おうと自分の勝手だと言わんばかりの態度になっている。そして多田も、それに甘んじているたのしさを発見したようだ。  三人目の継男を産んだとき、由子は勝手に不妊の手術をしてもらって来ている。積極的になりはじめたのは、それから一年ほどしてからであった。由子は多田を好きなようにもてあそんでいる。以前多田にそうされたように、胸や脇腹のあたりに唇を這わせ、多田が少しでも反応を見せると、それで自分もいっそう燃えあがるらしい。  多田も二、三度トルコの経験をしている。場末だったが、それだけにサービスが徹底していて、由子のやりかたが近頃それにそっくりになって来ているのだ。  結局、ある垣根《かきね》のようなものを越えてさえしまえば、女はみな同じなのではないだろうか。……多田は妻のサービスに陶然《とうぜん》としながらそう思った。トルコの女も人妻も、そうなれば大したかわりはなさそうだ。男の体に馴れた人妻が醜いというのではなく、トルコ嬢のテクニックなるものが、単に羞恥《しゆうち》心をとりはらったというだけのことではないかと思うのであった。 「ばか、そんな声をだすな」  多田は左手で由子の口をおさえ、右手で彼女の柔らかい尻を引きつけて動けなくさせて言った。 「だって……」  由子は甘えている。多田の体にのしかかり、苦しそうに声を殺してまた動きはじめた。達したあと、しがみつきながら言う。 「変ね」 「どうして」 「まだでしょう」 「うん」 「昔はあなたが先だったのに」 「お前の体が変わったんだ」  由子は深く息を吸ってから、目を据《す》えてまた腕を突いた。 「おわらせてあげる」  多田は満足だった。妻も子も仕事も、そして世の中も、何ひとつ不足なものはないと言った気分だった。  由子が下腹部を拭ってくれているのをぼんやりと意識しながら、多田は睡《ねむ》りにおちて行った。  夢の中で、濃い黄色の灯りの中を、まっ黒な蒸気機関車が走っていた。そして多田はいつの間にかそれに乗っていた。機関車はおもちゃのようで、ポ、ポーッという陽気な笛を鳴らしていた。  自分が子供時代に戻ったのか、それともそばに継男がいるのかよく判らなかったが、とにかくその蒸気機関車は、むかし見た絵本の、お菓子の国のようなところを走っているようであった。 「あのおうちはビスケットでできているんだぞ。屋根はチョコレートだ」  父が子に説明してやっていた。多田は父であり、同時に子でもあるようだった。 「食パンをくりぬいたトンネルだ」  多田は手をのばして、そのトンネルの壁から白く柔らかいパンをひとつかみもぎとった。うきうきした気分だった。 「お菓子だ、お菓子だ……」  突然機関車から継男がとびおりて叫んだ。今度はたしかに継男で、多田はどんどん走り去る息子をひどく心配しながら眺めていた。     6 「それ……しゅっぱあつ……」  玄関で多田が陽気に言った。 「ちえっ、張り切ってんだなあ」  いつもより早めに学校へ追いだされた正男は、そうぼやきながらも、父親の上機嫌《じようきげん》がうれしいらしく、 「行ってきまあす」  と元気よく出て行った。 「良子はまだか」  多田が大声をだすと、由子がニヤニヤしながら台所から出て来た。 「ご機嫌ね」 「そりゃそうさ」  からりと晴れた朝だった。 「現金な人」  由子はゆうべのことを言っているらしい。結構自分もうれしがっているようで、朝にしてはひどく色っぽい目つきをした。 「ばか。……行くぞ」 「はい、いってらっしゃい」  珍しく由子までサンダルをつっかけて、通りまでついて来る。遅れて出て来た良子が、ふしぎそうな顔でそれを見ていた。  時間に余裕がある多田は、渋谷行きの電車の一番うしろのドアから乗った。この線は前とうしろで混みかたが極端に違う。多田は明るい朝の光に照らされた車窓の風景を、すいた電車の中からのんびりと眺めていた。  渋谷駅で地下鉄に乗り換えるときも、二台ほど待ってうしろから二輛目の最後尾の椅子に腰かけた。ラッシュ時で、乗客はみななれ切っている。ぶざまな席のとり合いもなく、それぞれがあっという間に場所を占めた。  走りだして宮益坂《みやますざか》の下へもぐったとき、多田はふととなりに坐っている客を意識した。なんとなく見憶えがあるような気がしたのだ。しかし相手が無反応なので、そのままいくつか駅を過ぎた。 「おや。ゆうべの……」  赤坂見附《あかさかみつけ》でどっと乗客が入れかわったとき、その男が急に言った。多田ははじめて気付いたふりをして、となりの男を見た。白っぽい、とゆうべ感じたのは、うす鼠色のジャンパーであった。 「ああ、いや、どうも……」  意味をなさない言葉を吐いて多田は笑った。 「池の上におすまいですか」 「ああ……ええ」  男はなれなれしかったが、不愉快な感じではなかった。 「何をごらんになってたんですか」  多田は困ってまた笑った。 「わたし、ばかみたいに見えたでしょう」 「え……」  多田は見つめ直した。平凡で、少し貧相な感じであった。 「よくあるんですよ。道でね、一人が空みてると、みんながつられて立ちどまり、ポカンと上を見てるって奴……。ゆうべ、わたしはあんたにつりこまれちまって」 「いや、それは失礼しました。別に大したことじゃなかったんです」 「あの踏切のしるしでしょう。いえね、つまんないことかもしれませんが、あたしはゆんべひと晩考え込んじゃった。あの人はいったい何を見てたんだろうってね。気になるんですよ、そういうことは」  多田はふきだした。自分の何気ない行動を、ひと晩考えていた人物がいると思うと、おかしくてしかたなかった。 「あの標識には、汽車の絵が描いてありましたね」 「ええ……ええ」  男は熱心に頷いた。 「そう思ったんですよ」 「は……」 「踏切注意という文字でもいいわけでしょう。まあ、それじゃ子供が読めないというんなら、汽車の絵でもいいですよ。どっちにしても、木の板かなんかでいいはずじゃないですかね。そりゃ、箱型の、中に電気がつくやつのほうが見えやすいでしょうけれど、あんな場所で、踏切まで一気にそうスピードをだして突っ走れるわけもなし、ふつうなら線路があるからどうしたって気がつくでしょう」 「ええ、ええ。そうですねえ」  男はやたらに感心して相槌《あいづち》をうっている。 「だから、贅沢《ぜいたく》なもんだなあと……」 「なるほど」  男は頷いた。 「そう言えばそうだ。ええ、そうですとも。あれひとつ作ってつけるんだって、いいかげんかかりますよ。たしかに贅沢ですわなあ」 「まあ、それだけ今の社会が豊かになっているというわけでしょうが」 「うん、そうだ。まったくです。豊かです。そうに違いない。豊かすぎるんです。でも、そう言えば、あれはあちこちで見かけるなあ。いや、今まで気がつきませんでしたよ。無駄に気づかなくなったんですかなあ。なるほど」  多田は男があまり感心するので気恥かしくなった。 「いつまでこういう世の中が続いてくれるものでしょうかね」  少し男の反応をしずめようと、多田はそう言った。男は思いどおり深刻な顔になる。 「ばちがあたりますよ、こうみんなで贅沢してちゃ……。もうずいぶん戦争もないこったし。日本はよすぎますよね」 「実はわたしもそう思ってるんです。今のくらしには満足してないこともありませんが、それだけに、今にも何かとほうもないことが起るんじゃないかって……」 「そりゃもう、そのとおりで。子供だって、はしゃいで笑いこけたあとは泣くもんです。自分のことを言っちゃ何ですが、これでもわりと苦労して来たほうでしてね。世の中は泣きが七分に笑いが三分。それならしあわせなほうですよ。やなことがいっぱい起りやがって、なんとかそれをしのいでるってえと、ひょいとみんなで笑い合うような日も来る。でも、またすぐいざこざが……。ねえ、そうしたもんですよ。これはわたしだけじゃないと思う。苦労した人間はみんなそいつがよく判ってるんで……だからですよ。だからあなただって、あんまりいい目がつづくと、もうすぐ凶と出るんじゃないかって、心配になっちまうんで。ねえ、そうでしょう」 「ええ」  男の言い分は的を射ていた。しかし、他人からそう言われてみると、なぜかひどく当たり前のことを言われたような気がして、多田は少し鼻白んだ。  沈黙が続き、やがて電車は日本橋をすぎた。 「それじゃ、失礼します」  多田は急に立ってドアへ向かった。     7  仕事も快調だった。行き渋っていた商談がふたつほど、とんとん拍子にその日のうちにまとまり、その処理にあちこち駆けまわっても、少しも疲れたような気がしなかった。 「多田さんは張り切ってるなあ」  若い社員がからかい半分に言った。 「君ぐらいのとしになったら、もう少しくたびれるもんだぞ。何かいい薬でも飲んでるのか。いい薬があるなら教えてくれよ」  専務が半ば冗談のようにそう言う。多田は反射的に昨夜の由子を思い浮べた。 「スタミナ源というのは、意外に手近なところにあるもんですよ」 「そうか」 「要するに気の持ち方でしょうな」  すると専務ははじけたように笑いだした。 「君にそれを言われれば世話はない」 「どうしてです」 「何をとぼけてるんだ。終末だの戦争だのと言って、いつも先ゆきの暗い話ばかりしてるくせに」  まわりの男たちもどっと笑った。しかし、多田にとってそれは悪い気分ではなかった。人気者になった気で、みんなと一緒に笑っていた。とにかく、多田としては珍しく陽気な一日であった。  その気分のせいでもなかったが、日が暮れると若い連中の間から、飲みに行こうという話が持ちあがって、近くの小料理屋で飲むことになった。  だが、飲む内に多田はだんだん意気があがらなくなってしまった。その原因は一緒に行った連中がひと世代下の、二十代のおわりから三十代前半の男たちだったせいだ。 「たまに飲むのも悪くはないが、あまり贅沢するなよ」  多田は自分がそのくらいの年に、たたみいわしなどの魚の干物でよろこんで飲んでいたことを思い出し、ついそう言ってしまった。 「ほら来た」  若い連中は顔を見合わせて笑った。彼らの前には平目や間八《かんぱち》の、いきのいい刺身が並んでいた。 「でも多田さん。おかしいじゃないですか。不公平ですよ」 「なにが不公平だ」 「いつも多田さんはそう言うじゃないですか。今は豊かで平和だ。平和すぎる、贅沢すぎるって」 「ああ、そのとおりだ」 「たしかにそうでしょうよ、でも、その豊かな社会をこっちはまだ本当に味わっちゃいないんですよ。これからなんですからね」 「そうじゃあるまい。君たちだって豊かな青春を送ったろう。スキーだスケートだ、映画だジャズだ……何だってないものはなかったろう」 「でも、そいつは金がいるんですよ。若い者は悪いことでもしない限り、たっぷりたのしむわけには行きませんよ。その点、多田さんたちは繁栄する社会をたっぷりと味わったでしょう。そういう人が僕らに言ったって、ピンと来ませんねえ。これからはどうも下り坂らしいし。言うんなら、今のうちどんどんたのしんどけって言って欲しいな」  多田は強く首を横に振った。 「違う。違うんだ。そこに魚がある。食う為に水からあげてしまった以上、もうどんな贅沢な食いかたをしようとかまわないさ。でも俺が言うのはこれからのことだよ。これからは、その魚もとれなくなってしまうかも知れんということさ」 「どうしてです」 「魚はひとつのたとえだ。俺がいつも言ってるのは、こういう豊かさがいつまでも続くわけはないということだ」 「だから、なぜなんです」 「それが世の中の基本的なパターンさ。泣きが七分で笑いが三分。それが人生というもんだ」  多田はけさ地下鉄で会った男を思いだしながら言った。 「参っちゃうなあ」  若い男たちはまた笑い合った。 「そうきめつけられたんじゃかなわない。泣いてばかりの人生なんて……なあおい」  みんな同意する。 「泣くも笑うも気の持ちようでしょう。それに、なんだかんだ言ったって、太平洋戦争みたいのは当分起きっこないですよ。世界の構造がかわっちゃったんだ。物だってなくなりはしないですよ、物資は必要とするところへ集ってくる。経済はそういうことになっているんです」 「それは君、おてんとさまと米の飯的な考え方だぞ」 「おてんとさまと米の飯的……なんです、そいつは」  まるで通じなかった。 「まあいいさ。君たちは君たちだ。しかし、とんでもない破局がやって来ても知らんぞ」 「それは困るなあ。先輩、なんとかしてくださいよ」  相手は別に悪意があるわけではなかった。言ってみれば、老人の話を肴《さかな》に、気楽に酒をたのしんでいるようなものである。しかし、それにしては、多田はまだ四十であった。老人にしては若すぎ、不遜《ふそん》にも見える年下の男たちに、何か気おされるようであった。  座が不快にならぬよう気を配り、若い連中をあやしながらひと足先に店を出た多田は、ほろ酔いのせいもあって、なんとなくまっすぐには帰りづらかった。仕事で終電車になることも珍しくなかったから、由子にとりたてて連絡する必要もない気易さで、多田の足はつい神田《かんだ》駅のほうへ向かった。  一人で歩いていると、ひどく侘《わ》びしくなった。暗くなったビルの列がなぜか廃墟《はいきよ》のように思え、多田はその間の道をトボトボと歩いて行った。     8  多田の足は、駅前のゴミゴミした裏通りにある、だだっぴろい大衆酒場へ向かっていた。それは彼がまだほんの新入社員だった頃から、足しげく通った古い店である。水っぽい二級酒を、胴のへこんだとりわけ小ぶりの銚子《ちようし》にいれて、思いきり熱燗《あつかん》にして持って来るのが特色だった。盃《さかずき》は出さず、厚手の小さなコップをつけるのだ。肴はたたみいわしからはじまって、焼鳥、冷奴、冬は小さな一人前《ひとりまえ》の土鍋《どなべ》を使った湯豆腐《ゆどうふ》、ちりのたぐい。  多田の青春の夜は、おおむねその店にあった。今の会社もその頃は神田駅近くにあって、現在のビルへ移ったのはずっとあとのことである。  少し酔った多田は、原点、という言葉を頭に泛《うか》べながら、うす汚れた紺ののれんをくぐった。 「ぇらっしゃい……」  入口の、風呂屋の番台然としたレジで、肥ったおばさんが言った。 「今晩は」 「あらお珍しい」  入れこみの大衆酒場で、名など憶えてはいないはずだが、古い馴染《なじみ》の顔はすぐ判ると見えて、おばさんがそう答えてくれた。  だが、それっきりであった。多田は隅のほうの席へ行って、まず酒を二本といくらのおろしあえをたのんだ。二本で一合五勺強にあたるはずだった。  並んだ銚子の数がふえるとうれしがるタイプの酒呑みがいる。どちらかと言えば古いタイプで、多田もその一人であった。その店にはそういう呑ん兵衛が多く、あちこちで空の銚子が行列を作っている。また、一本が七、八勺程度だから、かんたんに行列が増えて行く。ひょっとすると、その店がはやりつづけているのは、そのあたりに秘密があるのかも知れなかった。現に店員たちは、一度出した銚子は客が帰るまで決してひっこめようとはしないのだ。  多田の前にも、あっという間に銚子が四本並んだ。酔いがジーンと体中に行きわたって、本来なら陶然とする頃なのだが、その夜の多田の酔いは腹のあたりに重くわだかまる感じで、上半身には白けたような虚脱感があった。  継男はもう寝ただろうか……。多田はふとそう思い、腕時計を見た。まだ九時であった。 「大変だな」  多田はつぶやいてから、またひと口飲んだ。子供たちはみな、これからそれぞれの人生を歩まねばならない。あの人生を……多田は怯えのまじった気分でそう思ったのだ。  泣きが七分に笑いが三分。鼠色のジャンパーを着た男が言った言葉をまた思い出した。 「そのとおりだ」  つぶやいた多田は、木のテーブルに左肱《ひだりひじ》をついて考え込んだ。今までに経験した嫌《いや》な場面が次々に泛んで消えた。そういう場面のひとつひとつを、あの子供たちがこれから演じて行くのだと思うと、やり切れない気がした。  だが、それが人生なら仕方がない。誰もが辿《たど》るけわしい道なのだから。しかし、果してその子たちは、今と同じ状態の中でそれを演じるのだろうか。多田にはそうではないという予感が強くしている。  例の悲観的な未来像が、酔った多田の心に重苦しくのしかかって来た。飢え、破壊、炎、恐怖、血、そして死……。未来に関するあらゆるおぞましいものがおし寄せて、多田は思わず目をとじた。 「やあ、また会いましたねえ」  弾んだ声が耳もとで聞え、多田は目をあけた。 「お一人ですか」  けさ地下鉄で会った、鼠色のジャンパーの男であった。 「やあ、これはこれは」  多田はうれしそうに言った。こういう店で知人に声をかけられるのはたのしいものだ。 「わたしも一人なんで」 「一緒にどうです」 「いいですか」 「どうぞどうぞ」 「おい、ねえちゃん」  男は店員を呼び、自分の席から器類を移動させるようにたのんだ。 「この近くにおつとめですか」  多田は相手のコップに酒をついでやりながら言った。 「いいえ。でも、あちこち歩きまわるもんで」 「そうするとお仕事は……セールスか何かで」 「まあ、そんなようなもんです。ここへはよく来るんですか」 「以前は毎日入りびたりのようだったけど、近頃は足が遠のきましてね。会社が室町のほうへ移ったもんで」 「そうですか。時に、ゆうべのことですがね」  多田は笑った。 「いや、ゆうべは失礼しましたなあ。あなたがつり込まれるなんて……」 「縁というものは、あるもんですねえ」 「まったく」  二人は笑い合った。     9 「贅沢すぎます……」  男はそう言ってしきりに頷いた。二人分の銚子が、もう十本近く並んでいた。多田はそれを、同じ憂いを持った仲間として眺めている。 「だから、こんな世の中はそうそう続きっこないんだ。どこがどうなるのか、そんなことは知らないよ。こっちは政治家じゃないし、評論家でもない」  多田は熱っぽく言った。 「でも判るんだ。そいつはすぐそこまで来てる」  男はまた頷きながら多田の目を見つめた。 「あんたも家族がおありだろう。俺もいる。うん。上が女、下の二人が男。いい子供たちと言ったら親馬鹿になるが、まあいい子供たちだ」 「いくつです」 「上が小学校の六年。それに四年と、来年一年生になるのが一人。親ならね、子供はかわいいんだ。誰だってそうでしょうが。だから俺は心配でしようがない」 「まったく」 「心配したってしようがないことだけど、そう、不安……不安でしようがないんだ。判るでしょう。おやじの俺がどうがんばったって、世の中がひっくり返ってしまうのをとめられるもんじゃない。ええ、そうでしょう。女房や子供が地獄みたいな時代に突きおとされるのを、ただじっと見てるよりしかたないんだ。しかも、きっとそうなるってことだけは、ここんとこで……」  多田は左手で胸を叩いた。 「ズキーンと判っている。予言するだけじゃなんにもなりはしない。どうにもしてやれない。せいぜい大地震が起きたときの、咄嗟《とつさ》の逃げ方とか、火に囲まれたときの逃げ場を教えておくくらいなもんですよ。なさけない。まったくなさけない」 「あなた、そういうことは教えてるんですか。ほんとうに……」 「ええ、できるだけのことはしてやりたいですからね。俺の家のあたりで火に囲まれたら、それはもうどうしようもない。だから、駒場のほうへ逃げろってね。東大の構内へ逃げ込めばなんとか命だけは助かるでしょう」 「まあ、それはそうだけど」  男はあいまいな言い方をした。多田はギョッとしたように、 「あそこじゃまずいんですか。ええ、何か知ってたら教えてくださいよ」  と坐り直した。 「いや、別に……あそこならいいでしょう。しかし、あなたも勘の鋭い人だなあ。びっくりしてるんですよ」 「どうして……」  男は店の中で飲んでいる客を見まわした。 「みんな呑気《のんき》に飲んでやがるけど、明日はどうなるか、本気で心配してるのはあなただけだ。実はね……」  男は声をひそめた。多田は銚子の列を手荒く並べかえ、テーブルの上に体をのりだした。 「そういう情報が一部には流れているんですよ」 「どういう情報」 「そりゃ、地震もないことはないだろうけど、その前に」  左手を軽く握り、上へ向けてパッとひらいて見せる。 「これでさ」 「なに」 「戦争」 「まさか」 「いや、ほんと」 「どこと」 「世界中ですよ」  きまっている、と言うように男は頷いた。 「いつ頃」 「あんまり先のことじゃないですね」 「なんであんたがそんなこと知ってるの」 「わたしはね、ちょっとしたとこへ首をつっこんでる。こんな恰好《かつこう》してるし、貧相だから、なかなか信じちゃもらえないだろうけど」 「いや、そんなことは……」  多田はあわてて否定した。 「こんなことはまだ新聞も書きはしない。書けないんですよ。でも、ほんとですよ」 「くわしく教えてもらえないかな」  すると男は多田から少し顔を離し、すかすようにみつめた。 「あんた、今は酔ってなさる」  ひどく冷静な態度であった。酔っている多田はその冷静さに気おされた。 「うん、たしかにだいぶ飲んじゃったな。でも、聞きたい。人にもらしはしない。ただ、女房や子供たちのために、知っておきたいんだ。どうだろうね。あんた、うちの近くの人でしょう。あらためて会うってことにしたら。あすでもあさってでもいい。この次の日曜日でも」  男はじっと値踏みするように多田を見ていたが、やがてコクリと頷いた。 「言っときますがね、こいつは嘘《うそ》や冗談じゃないよ」  急に大きく見えた。多田はかしこまって頭をさげる。ポケットから名刺をとりだし、男に渡した。 「なんなら、そこへ連絡してくれてもいいですよ。真面目な話として聞きます」  男は寛大な微笑を泛べた。 「少しは生き残れるはずだ。その中にあなたの一家が入ってもいいだろう」     10  翌朝目がさめたとき、すぐそのことを思い出した。二日酔というほどのことはなくて、顔を洗うとすっきりした気分になった。  わけ知り顔の変なおやじと飲んでしまった……。心の底に軽い悔いのようなものがあったが、子供たちの朝の騒ぎにまき込まれて、それもすぐ忘れてしまった。  ところが、会社へついてすぐ、その男から電話が入った。 「やあ、ゆうべはどうも……」  尊大ぶったその声を耳にしたとたん、多田はしまった、と思った。妙な奴にとりつかれたと感じたのだ。 「はい、多田ですが」  すぐには思い出せないふりで答えた。 「例の件だが、今日お話ししましょう」  有無を言わせぬ調子であった。 「はあ」  多田は態度をきめかねてあいまいに言う。 「あれからよく考えてみましたが、あなたがあれほどおっしゃるのだから、お教えすることにしました。良子さん、正男さん、継男さん……たしかに素直ないいお子さんたちだ。なんとか頑張《がんば》って生きのびてください」  多田は呆気《あつけ》にとられた。子供たちの名をなぜか知っているのだ。 「それはどうも」 「代々木公園をご存知でしょうな」 「ええ……はい」 「原宿の、明治神宮のそばの」 「知ってます」 「十一時。代々木公園へ来てください。わたしも時間を都合して、公園の中で待っています。そう長い時間はかからんはずですから」 「はい」 「じゃ、十一時に代々木公園で」  電話は切れた。多田はぼんやりと受話器を見つめた。  あの鼠色のジャンパーを着た貧相な男が、なぜ急に今のようなえらそうな口をきくのか、よく判らなかった。  同じ池の上あたりに住んでいるのだから、何かで子供たちの名を知っているとしても、そうふしぎではないのかも知れない。しかし、あの貧相な男が、誰も知らない戦争の情報を掴《つか》んでいるというのは、どう考えても信じかねた。だが、放っておくわけにもいかなかった。家も勤め先も知られてしまっているのだ。何か不純な魂胆で接近をたくらんでいるなら、しつこくつけまわされるだろう。それなら最初の段階で、はっきりけりをつけたほうがましだ。  多田は出かける気になった。だが、代々木公園という場所が気に入らなかった。ウイークデーだし、人影はまばらだろう。仲間がひそんでいて何か暴力沙汰に及ぶような可能性もないではない。しかし、それにしては相手の目的がはっきりしない。金品を奪うと言っても、サラリーマンのことだから大して金目のものを持ち歩いているわけではないのだ。  ひょっとすると、誇大|妄想狂《もうそうきよう》のたぐいではないかと疑った。ああいう場所で酒を飲んでいると、話の調子ではふだんそんなけのない人間でも、つい駄法螺《だぼら》を吹いたり、思ってもいない嘘をついたりしてしまうものだ。ただふつうは酔いがさめればそれきりになるのだが、あの男は翌朝になってもまだそのつづきをやっているのかも知れない。  多田はあれこれ想定しながら会社を出てタクシーに乗った。商売でいつもあちこちとびまわっている身だから、時間の融通ならどうにでもなるのだった。  きのうにひきつづいて、よく晴れた日だった。多田はわざとタクシーを原宿の駅前にとめ、そこからゆっくり公園の入口まで歩いて行った。何か不穏な気配がありはしないかと警戒したのであった。  公園のあたりはのどかであった。ジーンズ姿の若夫婦がひと組、ヨチヨチ歩きの子供をつれて、多田の前をのんびり公園に向かっている。あとは高校生らしい娘たちが三人ほどと、ぴったり寄り添ったアベックがひと組だけ見えている。  平和だ……。多田はそう思った。もしあの男の言うことが本当なら、この公園などもいずれ臨時の墓場にされてしまうに違いない。  多田は公園へ入り、ちょっと立ちどまった。あの男の姿はどこにもなかった。欺《だま》されたのかも知れないと思った。それならそれで、いちばん無難な結果かも知れない。いや、きっと俺はからかわれたのだ。……多田はそう確信しはじめていた。ただ、うららかな陽射しに誘われて、ひろびろとした公園の道を散歩しはじめた。     11 「やあ……」  それは公園の西南の一隅だった。左手が小高い丘になっていて、道はそのそばをまっすぐ新宿側のはずれへ向かっている。自転車専用路がすぐ近くにあった。  多田は声をかけられてあたりを見まわした。道から少し引っ込んだところに公衆便所の四角い建物があり、その入口のわきに丘の上へあがる階段がついている。公衆便所の上は、屋根のついた無料休憩所になっていて、ジュース類を売るスタンドもあるが、今は閉店している。 「あがって来なさい……」  休憩所の横の太い樹の幹のかげにかくれるようにして、あの鼠色のジャンパーが見えていた。 「本当に来ていたんですか」  そこまでゆっくり歩いて来るうちに、多田はだいぶゆったりした気分になっていた。  かけ引きする気もなく、出たとこ勝負で率直な態度をとった。 「疑っていましたね」 「そりゃそうでしょう」  多田は便所の横の階段を登りながら言う。 「第一に、酔ったときのお約束ですし、第二にはひどく飛躍した話ですからね。正気なら疑うのが当然でしょう。しかし、わたしはやって来ました」 「なぜ」  男はじっと多田を見た。その瞳に意外に高い知性を感じて、多田は少しうろたえた。 「知りたいから。……戦争のことを」 「信じなくてもふしぎはない。いま君は正気なら疑うのが当然と言ったが、それ以上だな」 「それ以上というと」 「正気ならやって来なくてもふしぎはない。だが君はのこのこ出掛けて来た」 「正気じゃないのかな」  多田はそう言って笑って見せた。 「いや、君はそれだけ真剣に、やがて来る破滅の日を心配しているからだろう。もし来なくても、わたしはかまわなかった。結局、誰を救ってもいいわけだからな」 「救う……」 「そうだ。君の一家は救われたいのだろう。違うのかね」 「そりゃ、救われたいですよ」 「だが、まだ信じられない。そうだね」 「ええ。まあ……」  男はニヤリとした。ぶきみな笑い方であった。 「こういう人目の少ないところへ呼びだしたのは、君に信じさせるためだ」  そこはちょっとした原っぱになっていて、太く高い木が点々と生えた間に、低い雑草が茂っていた。 「まず自己紹介から先にしよう」  男は鼠色のジャンパーのポケットへ両手を突っ込み、背を丸めるような歩きかたで、その小さな原っぱのまん中へ行った。なんということなしに多田もそのあとに続く。 「わたしは悪魔だ」  まん中の陽射しで明るい所で立ちどまった男が、ひょいと言った。 「え……」 「悪魔」  多田はニッコリした。 「信じるかね」 「いいえ」 「悪魔の存在は」 「信じませんね」 「だが、わたしがここで消えたらどう思う」 「ここでですか。……何かのトリックでしょうな。本当に消えたらの話ですが」 「では消えよう」  男はそう言い、ニヤリとしたようであった。しかし多田はそれを確認できなかった。男の姿がなくなったからである。  多田はびっくりしたが、すぐ男の消えたあたりへ行って地面を調べた。何の痕跡《こんせき》もない。  上を見たが、吊《つ》りあげるとか、何かの幕をおろすとか、そういう仕掛けをするのは不可能な場所であった。 「信じるかね」  声だけが聞えた。 「たしかに消えたようだ」 「うしろを向きたまえ」  多田はうしろを向いた。 「現われるぞ」  そう聞えるとすぐ、今まで多田がいたあたりに、鼠色のジャンパーがすっと出現した。 「さて、これはトリックかな」  小学校の教師のような言い方であった。 「さあ……。もっとやってみてくれませんか」 「いいとも」  男は消え、今度は多田のすぐとなりに現われた。 「まわりに木が生えている。右から順番に移動して見せよう」  男は消え、次の瞬間原っぱの向こうにある木の根方に立った。それもすぐまた消え、次はその一本右。  その次はもう一本右……。とうとう多田のまわりをひとまわりして、彼の二、三歩前へ姿を現わした。 「どうだね」 「たしかに、超自然現象のようです」  多田は驚きで痺《しび》れたようになっていた。 「もっといろいろなことが、わたしにはできる。たとえば、外の通りを走っている車の運転手に、理由もなくこの公園へ入ってこさせるとか」 「やってみてください」 「いいとも。少し時間がかかるが……」  男はニヤリとし、 「さあ、もうはじまっている。入口で少し手間どるだろうから、狂った車が来るまで、何か別のことをしよう」 「あの紙屑籠《かみくずかご》の中身を」 「燃やすのだな」  とたんにパッと火があがった。 「消して」 「よし」  火はすぐ消えた。 「あの木の葉っぱを全部落してみせてください」 「うん」  すると、多田が指さした木から、葉がパラパラと散りはじめた。何本も並んだ木の中の一本だけが、みるみる裸になってしまう。  そのとき、下の道に車の音が近づいた。 「来たぞ」  二人は丘のはずれへ歩いて行った。黒塗りの自家用車が、バンパーのあたりを無残にへこませて疾走して来た。 「ここは乗り入れ禁止だ。門の外には車止めの柵《さく》もある。その鉄柵のひとつを外さねば入ってこられなかったのだよ」  車は二人のいる辺りで大きく右へハンドルを切り、広大な芝生の中へ踏み込んで行った。 「どまんなかでとめよう」  男が言うと、その車は言ったとおり芝生の中央でとまり、さかんに警笛を鳴らしている。 「かわいそうに。あの男はわけがわからなくなっているのだ。君のせいだぞ」  男はからかうように笑った。遠くからパトカーの警笛が聞えて来た。 「あとは警察が始末してくれるさ」  パトカーの音が近づき、二人が立っているすぐ下の道にとまると、おっとり刀といった様子で警官が芝生の中へとび出して行った。 「悪魔か……」 「信じたかね」  多田は頷いた。顔から血の気が引いて行くのが判った。     12 「悪魔と思ってくれてさしつかえないが、それは君たち人間が勝手につけた名前だ」  二人はひとけのない休憩所のベンチに腰かけていた。パトカーも去って、公園はもとの静けさに戻っている。 「しかし、実在するんですね」 「ああ、するとも。存在しないのは神というやつのほうだ」 「いないんですか」 「あれこそ君たちが作りだしたものだよ。もっとも、はじめは我々のことをそう称していたがね。ところが、途中から君たちは、君たちなりに考えはじめた。実在して、人々の運命を意外な方向へ導くものは悪魔、実在せずしたがって何もしないやつのほうは神。そういうわけだ。考えてもみたまえ。実在して何か具体的な証拠を残すものは、人それぞれの立場から、好ましいとか好ましくないとか言われるわけだ。だが、何もしない抽象的なものならば、百パーセント善であるとすることができる。人間はそのほうをより貴《とうと》いとした。もちろんそれは君たちの勝手さ。我々には無関係なのだ」 「それで、悪魔は、いや、あなたがたは、何をしているのです」 「そう聞かれても困る。君にひとことで説明できるわけがない。たとえば、カマキリは人間の存在を認識できるだろうが、かと言って、畑を耕している農夫が、なぜそうやっているのか理解できまい。我々にとって自明の事柄でも、君らに説明するとなるとひどくむずかしい。水準と言うか次元というか、そういうものがまるで違うのだ。ただ、ひとことで言えば、今のカマキリの話のように、我々は君たちをコントロールしている。なぜするかは説明できんがね」 「はあ……」 「判らんだろう。しかし、トンボやセミは君らを悪魔だと思っているかも知れん。小鳥たちもだ。ぺットにしたりするのは、多分愛情というやつのせいだ。しかし、つかまった小鳥はなぜ監禁されるのか判るまい。非道なことをされたと思うだけだ。トンボなどに至っては、短い命をしゃにむに狙《ねら》われるおそろしさだけだろう。君たちの無邪気な子供が、悪魔なのさ。我々もそれと似たような立場だ。結局はもっと大きな、重要な目的でしていることでも、君らから見れば、邪悪きわまるとしか思えない。だが、我々は君らの言うような邪悪な存在ではないのさ。判ってもらえまいが」 「でも、少なくともあなたはわたしたち一家を救ってくれるわけでしょう」 「わたしの個人的な好みからだがね。……いいか、この社会は近々破壊される。我々の……つまり悪魔のスケジュールで、そういうことにきめてあるのだ。突然戦争がはじまり、あっと言う間におわる。どこで何がどうなったのか、もう今の君らの戦争では、知ることもできないだろう。世界中の核兵器が火を噴くからだ。最終的な殺し合いだな。しかし、いくらかは生き残って次の文明への種となる。その中に誰を残すか、このわたしにも選ぶ力がある。わたしの選択の中に君をいれてやろうと言うのだよ」 「お願いします」  多田は頭をさげた。 「もちろん代償を支払わねばならんが」 「代償」  多田はギョッとした。 「わたしは悪魔と呼ばれている者の一人だ。君たちの間に伝わっているとおり、悪魔に何か頼むときは、代償を要求される。そう大したことじゃないがね」 「妻子さえまきぞえにしないですむなら、なんでもやります」 「これからわたしがもういいという日まで、破壊活動に専念したまえ」 「破壊活動というと」 「あとでくわしく指示する」 「勤めのほうは……」 「もうあといくらもない世の中で、会社づとめに執着して何になる。やめなさい。今すぐにでも」 「しかし、それでは生活が……」 「それはこちらでちゃんとしよう。思いきり贅沢をさせ、たのしい思いをさせてやりたまえ。残り少い日々なのだ」  まさに悪魔のささやきであった。     13  それでもふんぎりがつきかねて、多田がひそかに会社を辞めたのは、一週間ほどあとのことであった。  引きとめられごたごたしたけれど、多田はなかば自棄的な強引さで、きっぱりと手を切った。そして、家族には急に引き抜かれて勤め先がかわったと言ってあった。  その言いわけはうまく通用した。現に会社をやめたあとも一日として休まず、いつものとおり電車に乗って都心へ向かっていたのである。  だが、彼が通っている場所は、オフィスのあるビルなどではなく、都心の一流ホテルであった。  そこにかなり大きな部屋が借りてあり、七人ほどの男が毎日通って来ていた。  みなあの悪魔のお眼鏡に叶《かな》った生き残り組で、どれもこれもごく平凡な男ばかりであった。  全員が顔を揃《そろ》え、一定の時間になると、忽然《こつぜん》とあの悪魔が部屋の中へ出現した。いつもあの鼠色のジャンパーを着て、しょぼくれた様子だった。 「さて、そろそろ仕事をしてもらおうか」  悪魔が言った。 「まず、君と君」  二人の男を指さす。 「君たちは手先が器用そうだ。時限爆弾の製造をやってもらおう」  悪魔はそう言うと、視線を多田のほうへ向けた。多田は思わず首をすくめた。  そのホテルの部屋の名義は、なんとデビル・プロというプロダクションになっていた。したがって、おもてむき当分は、多田たちもプロダクションの社員である。  もっとも、そのホテルには似たような小集団が幾つも部屋を借り切ってオフィスにしていたから、ホテル側でも金の払いさえよければ、とりたてて好奇の目を向けることはなかった。  それどころか、デビル・プロはそうしたオフィスの中では、とび抜けて金づかいの荒い会社であった。ホテル内でデビル・プロのサインが通用するところなら、多田たちはなんでも仕放題なのだ。ちょっと一服するティー・ルームやラウンジはもちろん、バー、スナック、レストラン、すき焼、うなぎ、寿司……。どれも一流の店が入っていて、至って庶民的な多田の目から見ると、ばかばかしい程の値段なのだが、とにかくいくら使っても文句が出ないのだから、平気で昼飯にステーキを食うようになる。  使わなければ損なのだ。おまけに、服のクリーニングやサウナバス、マッサージ、ハイヤー……およそフロントの伝票につけられるものなら、なんでもサインひとつでオーケーだった。  仲間の中には家へ帰るのを面倒がって、ずっと上の階の値の張る部屋に泊ったりする者も現われたが、やはり支払いはいつの間にか済んでしまう。  そんな中で、多田が与えられた仕事は、手先の器用な二人の仲間が作った時限爆弾を、所定の場所へそっと置いて来ることであった。  はじめてのとき、多田はひどく緊張した。 「やりそこなえば君たちは失格だ。そこまで手はかさんからな」  多田たちはそう言い渡されていた。つまり、悪魔は自分が選んだ者たちに悪業を強い、その危険性をも含めて、生きのびるための代償にあてているらしいのであった。  だが、ではいったいその代償をどのようにするのか。悪魔の取り分は、ということになると、多田たちには皆目見当もつかなかった。  多田は一挙に自分が兇悪な犯罪者になったという意識で、手足のふるえがとまらないほどであった。  しかし、そこまで来てしまった以上はやらなければならない。会社はやめてしまったし、デビル・プロでろくに仕事もないまま、贅沢の仕放題をしていたのだ。  それに、もっと重大なことは、悪魔から支度金のようなかたちで、多額の現金を支給されてしまっていた。多田は鳥がたつようなあわただしさで、家族をそれまでいた家の近くに建った高級マンションへ移してしまっていた。  今までにも、高級マンションに住む人々を羨《うらや》んだことはあった。しかし、よくつきつめて考えると、そういうすまいは、非常事態に対していかにも脆《もろ》いのだ。六階、七階に住んで電気の供給がとだえたら、もうどうにもならない。  水道の水も満足には出ないだろうし、飯をたくにも電気がなければ当然灯油だって姿を消すだろうし、そうなればなま火を焚《た》くにもせまいベランダだけがたよりだ。だいいち、ゴミの捨て場だって、庭の隅に穴を掘るというようなわけにはいかないのだ。  そういうわけで、借家でも小さいながら庭があり、いざとなったら垣根《かきね》、羽目板をはぎとって燃料にしても生きて行かれるほうが、ずっと安心できるから、古い木造の家で充分満足していられたのである。  しかし、悪魔に破滅の日の近いことを教えられたとたん、多田はそれまでになんとかして、家族に近代的なマンションぐらしをさせてやりたくなった。非常事態の計算をしなくてもよくなったからである。  そこへポンと夢のような大金である。しかも、欲しければまだいくらでも都合するというのだ。多田が息せき切った様子で、デラックスなマンションを買ったのは、そういう観点からすれば当然すぎるほどであった。  たのしい毎日であったと言えよう。毎日|閑《ひま》を見ては由子を都心に呼びだして、金に糸目をつけず片はしから家具類を買い揃える。 「凄《すご》いことになっちゃったのねえ」  由子は夫を信頼し切っており、疑う様子もなく、一挙に消費型経済に突入したわが家と、それをもたらした多田のすばらしさに、ポーッとなっていた。  あと戻りできないわけである。悪魔の存在も破滅の日の到来も、こうなったらひたすら祈るように信じるしかない。  そんな中での破壊活動である。多田は必死だった。あらゆる証拠を残さぬよう、万全の手をうち、爆発後にどうしても痕跡をとどめてしまう品物については、入手経路をたぐれぬよう、知恵をしぼった。  まして足どりについては、注意の上にも注意を重ね、万一ある程度まで目撃者が出ても、方角ちがいの場所を指向するように、入念な擬装工作を行なった。  おかげで、大勢の通行人まで無意味にまきこんだその第一回目の爆破は、無事に成功させることができた。  すぐ第二回目の指令が出て、それもまずまず成功した。三回目、四回目……多田は次第にそうした破壊行為のプロフェッショナルとして成長し、度胸が据《すわ》って来た。  だが、やはり悪魔は悪魔的であった。その企みの底深いことは、おそろしいほどで、一連の爆破事件は幾つかの異る勢力の攻撃と報復の結果であるという見方が、一般に強まって行った。悪魔がそのように受取れるよう、爆発物の材料から起爆装置の構造に至るまで、入念に仕組んで使いわけさせていたのであった。     14  豪華で危険な毎日が続いている。  多田はすでにプロの殺戮者《さつりくしや》として自信に溢れ、同時に多くの無辜《むこ》の死に対して麻痺《まひ》してしまっていた。  もっとも、社会現象として言えば、そのような爆破事件は世界的な傾向を帯びていて、経済大国化した日本にその波が上陸するのは当然であるような見方もできた。  多田は徐々にひとつの解答に近づきはじめていた。  デビル・プロは東京における悪魔の爆破班で、そのようなチームがいたるところに作られはじめているらしかった。想像をたくましくすれば、世界中の爆破事件が、悪魔の手によって操られているようである。多田たちのところへ現われる悪魔は、ほんの下っ端にすぎなかったようだ。悪魔たちはいまや総力を結集して、この世界におのずからなる破滅をもたらそうとしているのではあるまいか……。 「どうも俺はそう思うな」  今は戦友と言った気さえする、日々の危険をわかち合うデビル・プロの仲間の一人に多田はそう言った。 「なるほど、そこまでは考えなかったよ」  いつの間にかもう夏のさかりになっていて、二人はホテルのプールにいた。 「つまり、人類社会の今のタイプの発展は、ここいらでうちどめというわけかい」  その仲間はプールのへりに腰かけて、足で水をはねあげながら言った。 「うん、そういうことだな。やることはたしかに悪魔的だが、やはり悪魔という概念は我々人間のほうで勝手に作りだしたことで、実際には彼らはもっとずっと次元の高い存在かも知れない」 「この世界をコントロールしている……」 「そうだよ。それが最後の大仕事にとりかかっているんだ」 「だが、そうなるといろいろ判らないことがでてくるぞ」 「どうせ判らんことだらけだ。俺たちには理解しようもないさ」 「でも、たとえば日本だけに限って考えてみても、そうなると、日支事変や太平洋戦争、もっとさかのぼって、日清、日露、いや明治維新だって、そのプログラムの中のひとつということになってしまうぜ」 「そうかも知れないじゃないか」 「そいつを認めたら、関ガ原で徳川が勝ったことから、南朝が敗けたこと、源平の関係……大化の改新から騎馬民族の問題まで、ずっとつながってしまうことになる。いや、それどころじゃない。  そういう世界をひらいた人類の進化のあゆみそのものが、悪魔のプログラムということになってしまうよ」 「うん」  多田はそれでも否定しきれなかった。 「強弁になるかも知れないが、いつか悪魔は俺にこう言った。悪魔はいるが神はいない、とね。それは悪魔の言い草じゃなくて、本当のことなんじゃないかな」 「たしかに、俺の知る範囲で、悪魔に魅入られたような、或いは悪魔に魂を売り渡したようにして滅んだ奴は歴史上数多いけれど、神に救われたと心から思える奴はいないようだ」 「そいつさ。近ごろ俺はつくづくそう思うんだ。たしかに赤ん坊は無邪気で、どうかすると神の存在を考えさせるようなところがある。しかし、その無邪気な赤ん坊が、笑いながら小鳥を握りつぶすことだってある。そして、その清らかさは絶対に長く保てない。お菓子を欲しがるようになったとたん、強欲で自分本位の姿をあらわしてしまうんだ。男だ女だ、愛だ恋だというような年になるともういけない。愛が綺麗……何が綺麗だい。自分たちだけのことじゃないか。貴い……嘘をつけって言うんだ。惚《ほ》れ合ってる二人をそばで指くわえて見て、貴いなんて思う奴がいたらお目にかかりたいもんだ。汚ないのが本性だ。だから神なんかが要るんだろう。ありもしないのにな。誰かがこの天地を創造し、命を生みだしたとすれば、そいつは悪魔だ。神なんかじゃない。少なくとも俺たちが今考えているような、すがすがしい存在としての神じゃない。俺たち人間から見た神性をその一部に含んだ悪魔さ。よく見ろ、あの花だって仲間の植物と必死の競争をして生きのびているんだ。養分の少ないところへ移されれば、弱いやつから先に枯れる。神がいるんなら、そんな仕掛けを作るわけがない。あの鼠色のジャンパーの男が悪魔なら、俺たちはみんな、先祖代々の悪魔の子なのさ」 「破滅の日があるぜ。そいつを忘れちゃ困るな。みんな死んでしまう。それを今、たしかに悪魔たちはやっているんだ。奴らが作ったのなら、なぜ滅ぼす」 「いろんな考え方があるさ。自分が種をまいたから、咲いたらいつまでも長保ちさせようというのがひとつ。豚の子が生れたから、早く大きく肥らせて金にしようという考えがひとつ。同じ人間がそれを同時に考えることだってできる。でも花は確実に枯れる。そして豚は確実に食われちまう。両方とも死んだよ。そうだろう。どっちにしろ、破滅はやって来る。悪魔がそれに気付かなかったわけはない。はじめから知っていたんだ。いや、だからこそ人間社会を生み育てた」 「破滅させるためにか」 「俺たちだって花火を作る。ドーンと破裂して、それでおしまいだ。おわることが目的なのさ。百姓がとりいれをするのと同じさ。案外悪魔はワクワクしながら、そのおわりを待っているところなんじゃなかろうかね」     15  多田の目から見ても、終末の日は急速に近づいていた。  世界中の政治が腐臭を発し、どの国も他国に対してエゴイズムを露骨に発揮し、持てる資源をしまいこんだ。  それを欲しがる国は相手側を混乱させるため、その国内へ陰謀家を送り込み、政情不安をまき起した。そうはさせじと第三国が牽制行動を起すと、味方を作るため他の資源をえさに関係諸国に圧力を加える。  同時に各国内でも、人々が情報手段の発達で大量の知識を吸収し、富に対する欲求をつのらせていた。  下層民は低賃銀では働かなくなった。要求が通り、一時的に充足しても、力のある者はより多くの富を求めてそれをとりあげる。再び下層民の不満がつのり、また充足されたときには、すでに強者は次の収奪計画を開始させている。  そういう悪循環からドロップ・アウトした人々は、行き場のない袋小路へ追いやられ、無気力化するか、全面否定の虚無的行動を起し、結局両者とも過激な破壊活動や暴力行為を容認する方向へ傾斜して行く。  いっぽう、集中した富から発生した政治権力は、そうした傾向を単純にとらえ、一方的に悪ときめつけることでおのれを保全しようとする。そのため反対する勢力はますます過激になり、両者の関係は荒廃の一途をたどらざるを得ない。  またその一方では、安易に強きにつく昔ながらの弱者の大群がいて、無自覚に現状の保持を願っている。  すべての面で、ユートピアは失われてしまっていた。ひたすら現状維持を願う昔ながらの弱者でさえも、前途に何やら巨大な障害が横たわっていることを自覚し、刹那《せつな》的な風潮を瀰漫《びまん》させているし、過激な暴力にはしる者も、破壊のあとの新世界を明示しえず、永久革命などの図式で満足せざるを得ない。権力を握る富者にしても、急速に破滅へ傾斜する社会をたて直す方策が得られぬまま、強権強圧をたのむしかないと肚《はら》をすえる有様であった。  そして何よりも、人の心がかたくなにとざされ、融和しにくくなっていた。それはひとつには、全国土の都会化現象によるものであったが、それ以上に、常に自分を守りつづけねばならぬ、けわしい世相の結果でもあった。  たとえば、人はかつて、不注意に道を歩く自由を保持していた。しかし、車とその暴走の結果をいましめる法の不備から、人は道を不注意に歩く自由を失い、常に他を疑いの目で見なければ生命をまっとうし得なくなってしまっていた。そのことが、どれだけ人々の心を荒廃させてしまったかに気づく者は、ほとんどいなかった。しかし、道は人が生きるための、日夜必然的に連続して使うものであり、身を守る注意と、他者を疑う心とは不可分の関係にあった。  したがって、人は常に他者を疑うことになり、それが身を守る知恵として正当化されたのである。  悪魔は、そうしてゆるみ切った人垣《ひとがき》に、少しずつ手を加えているにすぎなかった。人垣が石垣のように崩れ落ちる日は、だからいともかんたんにやって来てしまった。  そのとき人は、近づいて来る台風の動きを刻々にとらえ、あらかじめ対処する知恵を得ていたが、人間同士の不信が累積した破滅の時は、遂に予知することすらできなかったようであった。  ただ、東京においてはデビル・プロのひとにぎりが、悪魔から直接それを知らされていた。  多田はある日、家族全員をデビル・プロのあるホテルに呼んだ。避難に必要な衣類や、記念の品をひとまとめにして、由子と三人の子供たちがやって来た。  同じように、仲間の家族も集って来て、一行は大型バスに乗り、東北へ走り去って行った。  どの家族も、父や夫がそれまで何をしていたか、正確に知らされてはいなかったが、何やらおそろしい破局が近づいており、それからのがれるためであることだけは、おぼろげながら悟っていた。  彼らはバスの窓をとざされ、どことも知れぬ道を走ったあげく、いつの間にか地底へ導かれていた。バスを運転していたのは、鼠色のジャンパーを着た男であった。     16  地底で幾日送っただろうか。  設備は申し分なかった。たっぷりとしたスペースの個室があり、湿度温度ともに、常に一定に保たれていた。  ピンポン台に、各種のゲーム用品が揃い、子供たちは仲よく遊んで暮した。食事も栄養満点で、かなり贅沢であった。 「さて……」  夫たちはあるとき悪魔に呼ばれて一室に集った。 「そろそろお別れのときが来た」  夫たちはざわめいた。 「地上へ出られるんですか」 「そうだ。核戦争はとうにおわった。放射能の害もかなり減少した。これから先は君たちでやって行け」 「でも、食糧や何かは……どうせ東京は壊滅したんでしょう」 「日本は、だ。いや、世界中が滅んだよ」 「じゃ、どうやって生きて行くんです」 「贅沢を言うな。生き残っただけで充分だろう」 「すると、このあとどうなるんです」 「着のみ着のままで出て行ってもらう。外にいれば同じことのはずだぞ」  一人もそれ以上は言わなかった。 「出て行って生きるがいい。地獄でな。そして、運がよければまた増えるのだ。ただ、それにはまた長い年月が要る。何世代も、何十世代もだ。そしてどうなるか……そいつは言えんがね」  鼠色のジャンパーの男は、そういうとみんなをせきたてて、来たときのバスにのせ、走りだした。  誰からともなく、バスの窓のブラインドをあけはじめた。  一人も物を言わなかった。子供たちでさえ、何が起ったのか、ひと目で理解した。人間が何をしたのかを……。 「ここまでだ」  悪魔はそっけない声で言い、バスをとめてみんなを降ろした。人々は茫然《ぼうぜん》と地に足をつけ、動かなかった。バスはすぐ走り去り、不意に見えなくなった。 「ここ、どこ……」  良子がそっと多田に尋ねた。 「東京だよ。あのホテルがあったあたりだ」  多田は力なく答えた。  地にたつものはすべて崩れ、角あるものは融けて丸くなっていた。どこまでも、瓦礫《がれき》の山だった。町の音は、いまや風の鳴る音だけであり、人の姿はなく、焦げた人がたの汚物が散乱していた。 「由子、良子、正男、継男……」  多田は一人ずつ名を呼んだ。一人ずつ返事をした。 「みんなおわった。何もかもなくなった。これからは、自分の力だけで生きて行かなくてはならない」  みんな黙って聞いていた。 「今までお父さんやお母さんが教えた行儀やエチケットは、安心できる人たちの前だけでいい。それより、うんと図々しく、たくましくなければ生きて行けないぞ」 「はい」  子供たちは相かわらず素直だった。 「おい、みんな」  多田はデビル・プロの仲間に呼びかけた。 「団結しよう。俺たちだけでだ。ほかに生き残った連中がいても、そいつは敵だ」 「敵か獲物かだ」  一人が大声で言った。 「そうだ。俺たちにはもう何もない。何か持ってる奴がいたら、まず奪うことだな」 「俺たち以外に仲間はいない。ほかの連中に同情したり、手を組んだりしたら裏切りと見なす」 「よしそれで行こう」  デビル・プロの一行は、まず住居を探すために歩きはじめた。  そのとき一台のジープが廃墟《はいきよ》の中を接近して来た。  多田たちはさっとその行手にたちふさがり、バリケードを作ってそのジープをとめた。 「なんだ君たちは」  若い男が二人乗っていた。 「生き残りさ。お前らこそどうして生きのびたんだ」 「そうか、いたのか。いや、俺たちはいの一番にシェルターへかけこんでどうやら助かった口だよ」 「シェルター。そんなのがあったのか」 「ああ。あそこにな」  若い二人の男は、丘のほうを指さした。そこにはたしか、国会議事堂があったはずであった。 「するとお前らは……」 「ああ、おやじのおかげさ」  二人はみんなが知っている政治家の名を口にした。 「畜生め」  デビル・プロの男たちはいっせいにとびかかり、二人をしめ殺した。 「服は全部必要だろう。下着までだ」  家族たちの前で、彼らは二人の裸の死骸を瓦礫の中に放りだした。 「よし、そのシェルターって奴を占領しよう。食糧の備蓄もあるだろうな」  一行はぞろぞろと歩きだした。  破壊活動の経験で、夫たちはひどくたくましくなっていた。     17 「おい」  大悪魔が小悪魔の肩を叩いた。 「は……」 「お前も時には味なことをやるな」 「なんですか、それは」 「あの人間たちだ」 「ああ……」  小悪魔は恥かしそうに笑った。 「貧乏人を生き残らせろとは言ってなかったが、ためしてみるものだな。あいつらのほうがずっとたくましいぞ。おかげで、こっちが残した人間は、食う物もみな奪われて逃げだしている。さからえば殺されるしな」 「すみません。勝手なことをして」 「いいんだ、いいんだ。おかげで予定したよりずっといいスタートぶりじゃないか。まず殺し合い、奪い合う。あの子孫たちがどう育ち、どう歴史を作って行くか、たのしみだよ」  大悪魔はたのしそうに笑っている。  晴れた空の下で、もうすっかり廃墟の子になり切った正男と良子が、生き残りの金持ちたちを見つけに、今日も歩きまわっていた。 「それにしても……」  大悪魔が小悪魔を小突いた。 「お前も妙な連中を選んだものさ。それで、袖《そで》の下に何を払わせたんだ」 「爆弾屋をやらせたんです」 「たったそれくらいで生き残らせるとは、お前も欲のない奴だな。俺が残した連中などは子供を片輪にする薬を売ったりして、みんな苦労したんだぞ」 「安すぎたでしょうか」 「あたり前だ。今度やるときは、もっと大きなことをやれ。その程度の袖の下で満足しているようでは、いつまでたっても大悪魔にはなれんぞ」  多田たちのところへ、命ごいのために、米袋をかついだ一家が近づいていた。その一家は、かつて都心の広大な土地を占有していた、有名な一家であった。ただ、今となってはあまりにもひよわであったが……。 [#改ページ]   となりの宇宙人   田所《たどころ》はテレビのスイッチを消した。 「今日の放送はこれで全部終了しました」  アナウンサーの声がそう言ったからである。放送をしていないテレビの、あの白っぽいブラウン管の光が、田所は大嫌《だいきら》いであった。なんだか知らないが、ばかに淋《さび》しくなってしまうのだ。この広い世の中に、自分ひとりでポツンと取り残されたような、いくら頑張《がんば》っても前途に望みはまったくないのだぞというような、侘《わび》しく虚《むな》しく物哀しい光に思えるのである。  スイッチをオフにしてテレビを消すと、もう三日も敷きっぱなしの蒲団《ふとん》の上にあぐらをかき、枕《まくら》もとのハイライトの袋から、右手で一本抜きだして咥《くわ》えた。咥えると今度はその手でマッチ箱を取り、マッチ棒を一本取って皺《しわ》くちゃのシーツの上へ置くと、マッチ箱を右足の第一指と第二指の間にはさんで、また棒を取り、用心深く火をつけた。  左腕は胸の前で曲りっぱなしである。白い包帯でぐるぐる巻きになっている。手首の包帯のおわりのところが少しゆるんでいて、下から石膏《せつこう》らしいものがのぞいている。ギブスをはめているのだ。  会社を休んでもう一週間たつ。することがなくて、テレビばかり見ているのだ。新聞も週刊誌もお伊勢さんの暦も、読めるものはみんな読み尽している。朝になったら、となりの貞《さだ》さんが出勤する前につかまえて、何か本を借りなければどうにも時間が潰《つぶ》せないと思った。  部屋の広さは六畳である。入口の横に小さな流しとガス・コンロがついている。団地サイズの洋服だんすと整理だんす。冬になると炬燵《こたつ》になってしまう四角いテーブルと、小さな冷蔵庫、テレビ、食器|棚《だな》。少し前までそのほかに洗濯《せんたく》機があったのだが、脱水機を使うとガタン、ガタンと揺れて階下の住人から苦情が来たりする厄介ものだった。相当古い代物《しろもの》なのに意外と頑丈にできていて、いつまでも使えるし、捨て場もないので置いてあったが、三週間ほど前の日曜日に、ちり紙交換の車が、 「古テレビ、古洗濯機など、ご不要の品がありましたら……」  とやっているのを聞いて、衝動的に払いさげてしまった。近くに時間貸しの洗濯機屋が出来たので、洗う物はそこへかかえて行けばいいのだ。  洗濯機屋。このあたりの者はみなそう呼んでいる。洗濯屋なら洗ってくれるが、その店は大型の洗濯機を何台か並べて、自分で洗うのだ。いや、洗うのは洗濯機がやってくれるのだから、洗濯物を機械に放りこんで木のベンチに坐《すわ》って待っていることになる。待っている間の時間潰しに、雑誌がたくさん置いてある。何事にも観察が鋭くて頭のいいとなりの貞さんが、 「ねえ運《うん》ちゃん。あの洗濯機屋の本は、みんな床屋の匂《にお》いがするぜ」  と教えてくれた。次に行ったとき嗅《か》いでみたら、なるほど床屋の匂いがしみ込んでいた。洗濯機屋はもと不動産屋の場所であった。その不動産屋の弟が、同じ町内で理髪店をやっている。  ところで、田所はみんなに運ちゃんと呼ばれている。だが運転手の運ではない。廊下のドアのところに、田所|運一郎《うんいちろう》という表札が出ている。運一郎の運なのである。しかし、田所運一郎の職業はメリヤス会社の配送係で、要するに運転手なのである。その運転の運が悪くてこの間事故を起してしまった。左腕骨折ということで三、四日病院へ入り、案外軽くて自宅へ帰されたが、ギブスがとれるまではどうすることもできない。  もう春である。夜更《よふ》けでも、生暖かい、何やら妖《あや》しげな気分になって来る。左の腕がギブスの下でムズムズする。田所は煙草を灰皿《はいざら》のふちで叩いて右手の指にはさみ、つい聞き耳をたてた。  たしかに聞き耳をたてる価値はある。となりの貞さんは若いが区の保健所の係長で、まだ独身。背がひょろりと高くて額が広く、ちょっといい男なのだ。彼女が三人もいて、かわりばんこにうまく捌《さば》いている。今夜は多分あの子の番だな、などと田所でさえもう順番を呑《の》み込んでしまっている。  田所が思ったとおりの娘が、となりの部屋で寝ているのだ。色白で上向き加減の可愛らしい鼻、小さな口。ただ、化粧を落さずに寝たと見えて、目の化粧が黒く残っている。顔がぽっちゃり型なのに、体つきは案外すらりとしている。貞さんの腕が娘の首の下へ通っていて、二人とも裸。ついさっき睡《ねむ》ったところである。田所がテレビを消す寸前に……。したがって、耳をすましてもちょっと手遅れのようだ。  反対側の壁の向うはまだ起きている。女はキャバレーのホステスで、それがご帰館後、三面鏡に向って就寝前のお肌《はだ》のお手入れという奴。パックしてしまっているから、まっ白で無表情。うすっぺらなブルーのネグリジェを着ている。立つと右の膝《ひざ》っ小僧に、酔って転んだ大きなすりむき傷の痕《あと》がまだなまなましいのだが、今は向う向きで判らない。ちょっとお尻《しり》が平べったい感じだ。流産二回。いつも、今度できたら生んじゃうから、と夫を脅迫している。そんなことにならないよう、注意に注意を重ねているのが、ひとつ年下の唯夫《ただお》。バーテンダーである。二人はちゃんと籍も入れている。ただし結婚式はあげていない。夫婦の持物は多くて、まずセミ・ダブルのベッド。三面鏡に衣裳《いしよう》だんすに整理だんすに冷蔵庫。洗濯は田所と同じに近くの洗濯機屋へ行くから洗濯機はなし。そのかわり狭い台所に電子レンジまで置いていて、食器棚がそれに加わるから、まさに立錐《りつすい》の余地もないと言ったあんばい。押入れの襖《ふすま》をあけて中の品物をとり出すには、ベッドの上へ乗らなければならない。おまけに壁のあいている場所へはポスターだのポートレートだのがびっしり貼《は》り込んであって、目がチカチカするくらいだ。 「昌子《まさこ》、できたよ」  台所でおじやを作っていた唯夫が言う。 「ん……」  奥方の昌子はおもむろにパックをひきはがす。ナイロンのパンストだのパックだのというのは、実は引きはがすときに快感があるのだと言うが、本当だろうか。 「あんたとこ、もすこし早くおわれんのかいね」  昌子は夫と話すと、ときどきどこかの訛《なまり》が出る。 「無理だな」  唯夫は茶碗《ちやわん》に器用な手つきでおじやを盛って言う。卵雑炊とか肉うどんとか、その手の料理はうまいものだ。店でしょっ中作っている。ただし本式の修業はしていないから、ちゃんとした物の作り方は知らない。雑炊は上手だが飯は炊《た》けないという、変な料理人。それに生魚が扱えない。生臭いのが苦手なのだ。おまけに大の鼠《ねずみ》ぎらい。ちょっと女の子めいている。この間も店にチョロチョロッと鼠の影がさしたら、キャーッと言ってカウンターの上へとびあがった。客がいなかったからいいようなものの、 「ばかやろ。鼠がこわくてバーテンがつとまるか」  と、チーフに妙な叱《しか》られかたをした。  その二人が淡々とおじやを食べおわり、唯夫があとかたづけをして、セミ・ダブルのベッドへもぐりこんだ。 「今日からなしでいいよ」  昌子がネグリジェの前をはだけながら言い、裸の胸を唯夫の鼻先へ近づける。 「なら、きのう休めばよかったのに」  たのにィ……と唯夫は甘え声で言う。収入は昌子が唯夫の二倍強。でも今のところうまくいっている。愛だの人生だのという会話はこの夫婦には無縁だ。好きで惚《ほ》れて一緒にいる。行先きどうなるか考えもしない。昌子の当面の心配ごとは、客のアーさんが同僚の道子《みちこ》に取られやしないかと言うこと。道子はいつも主役になりたがって、今までにも何度か仲間の客を奪ったことがある。れっきとした彼氏がいるのにすぐ体を張って来るから面倒な相手だ。  唯夫が鼻声になりはじめる。いつもそうなのだ。男のくせにわりと派手によがる。昌子は最後のとき、ウッと圧し潰したような低い声をたてるだけ。でも、色気がないと言って心配することはない。相手が違うと結構甘い声で悶《もだ》えたりするのだ。  田所がそれに聞き耳をたてている。甘い声を昌子のだと、ずっと思い込んで来ている。だからドキドキして昂《たかぶ》る。唯夫のだと知ってもそれだけ昂るかどうか……。  真下の部屋の源田《げんだ》さんが、暗い部屋の中でじっと天井を見あげている。天井を見ているのではなく、電灯の笠《かさ》を見ているのだ。外からの薄い光で揺れているのが判る。もう七十近くて、別に肉体的な反応はない。でも目敏《めざと》くて二階ではじまるとすぐ目がさめてしまう。でも笠の揺れを勘定しているとまたじきに睡れるのだ。 「八十二、八十三、八十四、八十五……」  源田老人が八十五まで数えたとき、そう大きな震動とも言えないが、ドスンと上下動が一回あり、外でガシャッという複雑な金属音がした。睡りかけていた老人はそれでまたはっきりとさめてしまった。  大きな目をあいて笠をみつめている。さっきまでの揺れ方とは異なり、上下にふわふわとこまかく揺れている。老人は次の異変を待って身構えているが、それっきり何事も起らない。  そのアパートでいちばん先に外へ出たのは田所だった。ガシャッという複雑な金属音に憶《おぼ》えがあったからである。それもなまなましい奴……おかげで骨折したのだ。  事故だ、と思ってとび出したが、考えてみるとそんな大事故が起るほどの通りではない。ちり紙交換の車がやっと入ってこれるほどしか幅がないのだ。 「何だったんだろ……」  田所は生暖かい夜の中へ、鉄の階段を鳴らして降りて行く。 「あれれ……」  アパートの入口に、変な車がいた。まん丸で、中央に風防がついている。一人乗りだ。 「どこの車だい、こいつは」  所属を知りたくて言ったのではない。メーカーを知りたかったのだ。いずれ外車だとは思ったが……。ドイツの一人乗りにたしかこんなのがあった。でもこれはボデーがまん丸で平べったい。 「シャーシーを折っちまったのか」  下をのぞいてもタイヤが見えないのでそう言った。  カタ、カタ、カタ、と源田さんが下駄を鳴らして一階の廊下から出て来た。 「事故かい」 「ああ、今晩は。そうらしいですね」 「細い道をとばすからだよ、夜中だと思って……あれ、なんだいこの車は」  二人で首をかしげていると、貞さんがパジャマのボタンをかけながら降りて来る。それを手はじめに、アパート中が出て来た。 「貞さん、こんな車見たことあるかい」  田所が尋ねた。貞さんは眉《まゆ》をひそめ、 「そんなことはどうでもいいじゃないか。怪我人は、怪我人」  と強い声で言う。田所は叱られたように思い、首をすくめた。 「まだ中にいるんじゃないのか。仕方ないなあ」  貞さんは先に来ていた源田老人をちらっと見てから、中央の風防をのぞいた。 「なんか入ってるぞ。うつぶせに倒れてるみたいだ」  貞さんはその風防をあけようとした。丸っこく盛りあがっていて、手をかけるところもない。 「あけ方が判んないよ。運ちゃん、教えて」 「俺《おれ》……」  田所は貞さんの傍へ寄った。 「俺だって知らないよ。こんな車はじめてだもの」 「知らないのかい、運ちゃんのくせに」  今度の運ちゃんははっきり運転手の意味だった。 「うん」 「どうやってあけるんだろうな」  貞さんは調べはじめる。 「おい、ここをトラックでも通ったかな」  貞さんは顔をあげ、誰にともなく訊いた。 「通らないだろ。こんな狭いとこ」 「おかしいぜ。この車、タイヤがないよ。運んでておっことしたんじゃないかな」 「はい、灯り」  源田老人が部屋へ戻って懐中電灯を持って来た。貞さんがそれで照らしてみる。 「な、タイヤがないだろ」 「知ってる。あたしこれ見たわ。嫌《や》あねえ、これ、あれよ」  病院で栄養士の助手をやっている、田口《たぐち》さんというおばさんが素頓狂な声で言った。 「知ってるの、おばさん」  田所が訊く。 「運ちゃん知らないの。空飛ぶ円盤て」 「空飛ぶウ……」  田所は目を剥《む》く。 「冗談言いっこなし」 「あら……」  田口のおばさんは不服そうだ。 「テレビでやってるじゃない」 「でもさ、空飛ぶ……嫌《や》んなっちゃうな」  田所は風防をあけようと、あちこち懐中電灯で照らしている貞さんに助けを求めた。 「そうらしいな」  貞さんは案外|真面目《まじめ》だった。 「とにかくこいつは円盤だよ。多分、テレビの撮影用か何かで作ったんだろうな」 「それがどうしてこんなとこにおっこってるのさ」  田所は合点が行かぬらしい。 「俺だって知らないよ」  貞さんはこういうことになるとしつっこい。どうしても風防をあけてやる気で、熱心にいじっている。 「あの、落した人が探《さが》してるかも知れないぞ」  源田老人が言い、カタカタと下駄を鳴らして横町の出口へ行った。そのとき、プシューッと音がして、風防が突然ひらいた。 「あれ、うまくできてやがる」  貞さんは感心して懐中電灯をその中へ向けた。複雑そうな計器盤があり、何かのクッションを放り込んだのか、緑色のものが座席につまっていた。  カタカタと下駄を鳴らして源田老人が戻って来る。 「何もいないね。トラックなんか……」  二階で最後に出て来たのは、唯夫と昌子であった。鉄の階段の途中から唯夫が言う。 「どうしたの、何かあったの」  貞さんが上を見て答えた。 「円盤がおっこってたんだよ」 「円盤って……」 「空飛ぶ」 「ほんと。わあ、すげえ」  田所が低い声でつぶやく。 「気がつかねえわけだよ」 「え……」  貞さんに訊《き》かれ、少しあわてる。 「本物かね」 「まさか」  見物たちが口ぐちに言う。 「本物のわけないじゃない」 「ばかだよ」 「本物なら宇宙人が乗ってるよ」  と、座席の中のクッションか何かだと思った緑色のかたまりが、ムクムクと盛りあがり、風防の外へ半分出た。  頭でっかちで目がふたつ。鼻がなくて小さな口。両側にとがった大きな耳がひと揃《そろ》い。 「フーッ」  と音をたてて深呼吸をした。 「すみません、どうも」 「嫌だ、宇宙人じゃない」  みんな笑った。ぬいぐるみだと思ったのだ。 「夜分おさわがせして申しわけありません。上でちょっと事故がありまして、その……緊急事態という奴なんで。それで、やむを得ず降りて来たんですが、どうも悪いとこへ来てしまって、小さなうちばっかりでしょう、ここらは。だもんで、必死になって……だって、みなさんのおすまいに万一のことがあっては申しわけないし」 「降りて来たって、どこから」  貞さんがふしぎそうに言う。 「上……」  緑色の宇宙人はふにゃふにゃした細い二本の腕の片方を上へ伸ばした。 「空」 「ええ。宇宙」 「まさか」 「いえ、ほんと」 「それにしちゃ、言葉がうますぎらあ」  貞さんは疑っている。 「そりゃ、こっちは商売ですからね」 「何の商売さ」 「ずっと地球の変化を観察して記録してたんですよ。わたし、こう見えても二級の惑星監視員なんで」 「観察してたって、いつ頃から」 「そうですね」  宇宙人はちょっと暗算するように目玉を上へ向けた。瞳は黒い。 「こちらの時間に直して、ざっと一億八千万年くらい」 「一億八千……」  貞さんは呆《あき》れた。 「ええ。低いとこも飛ぶし、みなさんのくらしもちゃんと見てますからね。言葉ぐらい」 「ねえみんな」  貞さんはアパートの人々のほうを見た。 「この人は本物だよ」  その頃には近所の連中も起き出して来て、人垣《ひとがき》に加わっている。 「たしかにそうらしい。ぬいぐるみじゃないよ。ねえ、ちょっとその車……じゃなかった、円盤から外へ出て立って見せてよ」  宇宙人はのっそりと円盤の座席から出た。人間と同じように手も足も二本だが、やけにふにゃふにゃした感じであった。 「こりゃ本物だ」  源田老人が洋服の生地をほめるように、緑色の肌を指で撫《な》でて言う。とたんに宇宙人はぐらぐらっと体を傾け、倒れそうになって円盤のへりに手をつく。 「いけねえ、どこか怪我してるらしい」 「いや、大丈夫です。傷はないようです。ただ、ちょっと目まいが……」 「入って休みなよ」  田所が言う。自分も事故を起したばかりだから、同情心がある。 「どこへさ」  貞さんはむずかしい顔になった。 「ちょっと休ましてやったっていいだろ」 「そりゃいいよ。でも、どの部屋へ入れるんだい。誰《だれ》のうち……」  田所は答えにつまった。このアパートで一人きりなのは、田所と貞さんと源田老人だけである。しかし貞さんのところへは順番の彼女が来ている。田所は源田さんを見た。 「俺、外人は苦手だ」  源田老人は尻ごみする。 「じゃ、誰か上へ連れてってやってよ。俺の部屋へ」  誰も動こうとしない。 「ちぇっ、不人情だな。いいよ、俺が連れてく」  田所は片手を宇宙人の肩へまわした。 「いいんです、一人で歩けます。ちょっと横にならせてもらえば」 「じゃあついて来な。二階だから」  田所は宇宙人と階段を登って行く。みんなが道をあけて見送る。 「しかし驚いたな。宇宙人がこんなところに来るとはねえ」  二人の姿が二階へ消えると、みんな一斉に話しはじめる。 「新幹線で九州まで行ける世の中だ。宇宙人だって来るさ」  唯夫と昌子が階段を降り、円盤のそばへ行く。源田老人と顔が合うと、老人は反射的にぺこりとお辞儀をした。 「どうも、ご苦労さま」 「こちらこそ……」  昌子が意味もなく挨拶《あいさつ》を返す。老人が言ったのは、電灯の笠の揺れから連想してしまったのだのに。 「上はなんともないけど、下がぐじゃぐじゃだよ。ひどい事故だな。でも、こんな狭いとこへよく降りられたもんだ。危《やば》かったなあ」 「ねえ、警察へ報せなくていいの」  昌子が何気なく言った。 「そうだな。事故は事故だからね」  誰かが相槌《あいづち》を打つ。すると、宇宙人を部屋へ置いて降りて来た田所が、階段の途中から強い口調で言った。 「だめだよ、そんなことしちゃ」 「なぜ」 「だって、誰にも迷惑かけてないじゃないか。そうだろ。自分の乗ってる……円盤を、自分でぶつけただけじゃないか。交通課を呼べば何だかんだうるさいんだよ。俺だってそうさ。ハンドル切りそこねて田んぼへおっこっちゃったけど、田んぼには何も植えてなかったし、人も傷つけやしないし、ぶつけた相手もいなかった。怪我したのは自分だけだ。でもパトカーが飛んで来やがってよ、ああでもねえ、こうでもねえって書類ばっかり面白がって作りやがる。俺んときはすんじゃったから仕方ないけど、一一〇番なんか呼んじゃあいつがかわいそうだよ」  源田老人が頷く。 「そうだな。まして相手はこの国の人じゃない。身寄りもたよりもない人じゃないか。なるべくかばってやろうよ」  そういう源田老人も、今は天涯《てんがい》孤独なのだ。 「ようし、判った。じゃな、唯夫君、こいつをどこかへしまっちゃおう。朝になれば牛乳屋だの何だの、車が通るだろう。邪魔になっちゃ悪いもの」  すると、見物に来ていた八百屋のおやじが前へ出て来た。 「うちの裏が少しあいてるよ。いちんちかふつかならいいよ」 「じゃ、運んじゃおう、運んじゃおう」  男たちが円盤のへりへ手をかけて、寄ってたかって八百屋の裏へ運んで行ってしまう。 「なんだ、これまでか」  田口のおばさんはじめ、残った女たちは拍子抜けした様子で、めいめいの部屋へ引きあげて行く。 「でもさ、宇宙人て、本物見たのははじめてよ。面白い恰好《かつこう》ね」 「ねえ、あれ洋服着てないみたいじゃないの。裸だったのかしら」  女たちは笑い合っていた。  パンパンと両手をはたきながら、八百屋の裏へ行った男たちも戻って来る。 「運ちゃん、あいつ寝かせたのかい」  貞さんが田所に訊く。 「あんたの彼女がね、面白がって面倒みてるよ」 「あいつ、ちゃんと着てたろうな」 「うん」 「ならいいけど」  二人は小声で話し、階段の登り口で階下の男たちに挨拶した。 「おやすみ」 「ご苦労さん」  源田老人が田所たちに言う。 「じゃ、あんたがたにまかせたよ」 「あいよ」  田所は気軽に答える。 「このざまで会社は休みだし、ちょうどいいや」 「あした見に行くよ。俺も手伝うから何かあったら言ってくれよ」 「ああ」  二人は二階へあがり、廊下のドアをしめた。 「源田さんも面倒見がいいからな」 「淋しいのさ、一人ぼっちだから」  二人は田所の部屋へ入った。見ると宇宙人が窓際にへばりつくように立っていて、寝乱れ顔の娘が部屋を掃除している。 「おいおい、病人そっちのけで何してるんだ」  貞さんが言う。 「だって、あんまり汚ないんですもん」  娘は手際がいい。ざっと掃除して蒲団を敷き直す。 「シーツの替え、あります」  あります、と尻上りで言い、ながし眼に近い色っぽい目つきで田所を見る。 「整理だんすの一番下……出す出す。僕が出します」 「あたしが出すわ。だって、手が悪いんでしょう」  娘は甲斐甲斐《かいがい》しく抽斗《ひきだし》からシーツを出す。 「いい子だ。彼女が一番いいみたい」  うっかりそう言って、貞さんに肱《ひじ》で小突かれる。 「はい、ここへ横になってちょうだい」  宇宙人は頭をさげる。 「すいません。お手数をかけちゃって」 「いいんですよ、ねえ」  娘は入口に突っ立っている二人を見る。 「まあのんびり体を休めて。その調子なら、ひと晩寝ればなんとかなるよ」 「ええ」  宇宙人は大きな頭を枕に当てた。 「以前から、こいつの中身だけがよく判らなかったんですけど、いったいこの枕の中に何がつめてあるんですか」 「へえ、宇宙人でも判らないことがあるんだね」  貞さんと田所は蒲団のそばへ坐った。 「そば殻だよ」 「そば殻って、あの植物のそば……」 「そう」 「判らないはずだ」 「どうして」 「わたしら、あの植物が苦手なんですよ。ジンマシンができちゃう」 「あ、それはまずい」  貞さんがあわてた。 「おい、お前うちの枕を取って来い。あれは洋枕だから」 「はい」  娘は素早く立ってとなりの部屋へ行く。 「貞さん」 「なんだい」 「お前、だなんて呼んでるのかい」 「そうだよ」 「えれえなあ、三人も」 「別にえらくなんかない」 「でも、ほんとにあの子はいい子」 「まあな」  その娘が枕をかかえて戻って来る。 「ほら、こいつと取りかえて」  宇宙人は首を持ちあげて枕をとりかえてもらう。 「紹介しとこう。この子は淳子《じゆんこ》」 「へえ、淳子ちゃんか」  と田所。 「どうぞよろしく」 「顔はちょいちょい見かけるから知ってたんだ」 「あたしも……田所さんでしょう」 「そう運ちゃん」  田所は笑った。 「君の名前は。ただ宇宙人じゃ失礼だもの」  すると宇宙人はわけのわからない声を発した。田所と貞さんは首をすくめる。 「宇宙語か。全然判んないよ」 「でしょう」  宇宙人は微笑した。 「宇宙人でいいですよ」 「宇宙人じゃなあ……ウーさんはどうだい。ウーさんとかウーちゃんとか」 「変だよ」 「じゃ、チューさん」 「あ、それがいい。宙さんだ。……とにかく、ひどい目に会ったね、宙さん」 「ええ」  宙さんは力なく微笑した。  翌朝。 「弱ったよ、貞さん」  田所が出勤直前の貞さんをつかまえて相談している。 「宙さんの食べ物が判んないよ」 「そうか……」  貞さんは靴をはきながら考え込む。 「そいつは弱ったな」  貞さんは昨夜の騒ぎで少し寝坊し、気がせいているようだ。 「ねえ、食わせなきゃしょうがないだろ」 「うん」 「やだよ、ほっといて会社へ行っちゃ」 「会社じゃない、役所」 「どっちでもいいけどさ、なんとかしてよ」 「それじゃね、豆腐《とうふ》食わしてみな」 「豆腐……」  手近に豆腐屋がある。このアパートのとなりが豆腐屋なのだ。アパートの持主でもある。ただし、油揚げなどを作るから、豆腐屋にゴキブリの大群が住みついていて、窓をあけ放しておくとすぐゴキブリがとびこんで来る。だから全戸網戸つき。豆腐屋が持主なのだから、そのくらいのことはしてくれる。 「いちばん当りさわりがない食い物だと思うんだ。豆腐が駄目なら納豆。ハンペンなんかもいいかも知れないな」 「やわらかいものばっかりだな」 「でも、ソーセージとか魚とか食わせて、もし当ったらまたひと騒ぎだぜ」 「それもそうだな」  部屋の中で二人のやりとりを聞いていた淳子が口をだした。 「あたし今日お休みだから手伝ってあげてもいいわ」 「そうだ、こいつは今日定休なんだ。これ、美容師の見習いでね」 「そいつは助かるな。俺、手が不自由だからさ」  淳子は貞さんに念を押す。 「いいかしら」  暗にほかの彼女のことを言っているらしい。かち合ったら面倒なことになる。 「いいよ」  貞さんは淳子の言葉の裏の意味に気づいたのかどうか、はっきりしない態度で廊下へ出た。 「とにかく俺は行くよ。これじゃ遅刻だな」  腕時計を見て顔をしかめ、睡そうなはれぼったい顔で出て行った。 「行ってらっしゃい」  田所が淳子のかわりに大きな声で言った。 「さて、じゃあ豆腐を買って来なきゃ」 「あたしが行きます」  淳子はさっさと貞さんのサンダルを突っかけて出て行く。小柄な娘だから、サンダルが大きすぎて、それがまたやけに可憐《かれん》なのである。  田所はそれをうっとりと見送り、姿が見えなくなってから我に返って、恥かしそうに廊下を見まわしてから自分の部屋へ引っ込んだ。 「どうだい、調子は」  田所は急に威勢よく言った。宇宙人は起きあがろうとする。 「寝てな寝てな。今ね、彼女に飯を作らせるから」  まるで自分の彼女のような言い方をした。たのしんでいるらしい。 「新聞、買って来てやろうか」  勤め人の一人ぐらしだから、新聞など取っていないのだ。 「事故の記事が出てるかも知れないぜ」 「そうですね、お願いします」 「よし来た」  田所は出て行く。階段をおりると、豆腐などを買って来た淳子とすれ違う。 「ちょっと俺、新聞買って来る」  淳子は微笑してハイと答えた。田所は腕の負傷も忘れて、弾《はず》むような足どりで表通りへ向う。なんだか急に女房ができたような気分なのである。  朝刊を買って、ついでに煙草も買い、いそいそと帰って来ると、淳子が、 「おかえりなさい」  と台所で言った。田所は思わず、 「ええ」  と答えてしまったが、別に気づいた様子もない。 「ほら朝刊だ」  三部買って来た朝刊のひとつを急いでひろげる。宇宙人は寝たままごそごそと別の一部を……。 「ないね、どこにも」  宇宙船遭難、などという記事はどこにも見当らない。 「どうしたい、宙さん」  宇宙人が元気なく新聞を畳んだので、田所が心配そうに言った。 「全部で八人いたんです。無事だったのかどうか……」 「それは心配だなあ」 「うまくみんな地球へ降りられたのならいいんですが」 「まあ、心配してもはじまらないよ。それより、そろそろ起きられたら起きて、顔でも洗ったらどうだい。さっぱりするぜ」 「洗顔ですか」 「そんな大げさなことじゃないけどさ。顔を洗って歯をみがいて」 「歯はないんです」 「いれ歯かい」 「いいえ。あなたがたとは咀嚼《そしやく》のしかたが違うんです」 「ならいいけどさ。髭《ひげ》をそるんなら安全かみそりがあるよ。二枚刃の奴だ」 「新型ですね」 「ほう、よく知ってるな」 「テレビ電波を受けてましたから」 「なるほどね」 「でも、髭は生えないんです」 「そりゃいいや、便利で。いつもそりたてじゃあな」 「でも、顔を洗います」 「おいきた。起してやろうか」 「大丈夫です」 「遠慮するない。だいたい遠慮なんてする柄かよ、宙さんが」  田所ははしゃいでいる。明らかに淳子のせいであった。親切に起きあがろうとする背中を押してやって、ヨチヨチ歩きの子供の面倒を見るようなあんばいであった。 「あの、タオルは……」  淳子が訊く。 「整理だんすの二番目の右っかわ」 「はい」  淳子は甲斐甲斐しい。宇宙人はだいぶ体調が元にもどったらしく、ぎごちない手つきで顔を洗ってタオルで拭く。 「さあ飯だ。ねえ淳子さん、このテーブル、判るかい」 「炬燵《こたつ》になる奴でしょう」 「あ、知ってるの」 「あたしのお部屋にあるのもこれです」 「なあんだ」  田所はうれしそうに笑う。片手ながら精一杯小まめに食事の仕度を手伝っている。 「そこへお二人とも坐っていてください」  淳子が言った。 「邪魔かい」 「そうじゃないけど、男の人がそんな風にするの、好きじゃないんです」 「へえ、案外古いんだな。じゃやめとこう。宙さんはここへ坐んな。うまいぞ、彼女の手料理だから」  冷奴にはんぺんの焼いたのに納豆、味噌汁《みそしる》の実が豆腐、それに焼きのり少々。冷奴にそえた薬味《やくみ》のねぎがなんともいえないすがすがしい朝の色に思える。飯は炊きたてでホッカホカ。 「さあ、食べなよ、宙さん」  宙さんの手の指は四本で、箸《はし》ははじめてらしい。 「こうやって持つの。ほら……」 「スプーンを出しましょうか」 「いや、いいんです。お箸を持てるように稽古《けいこ》します」 「よし、その調子だ。どう、うまいかい」  宇宙人は冷奴をひとくち口に入れて首をかしげる。 「どうだい、食えるか」 「植物性ですね」 「豆腐だよ」 「おいしいです」 「そうかそうか。たんとおあがり」  三人で朝食がはじまった。 「おかわり」  田所が少しはにかんで淳子に茶碗をさし出したとき、ノックもなしにドアがあいた。 「お早う」 「ああ、源田さん」 「どうです、お加減は」  宇宙人は箸を置いた。 「どうも昨晩はお騒がせしまして……」 「いやいや、どうってことはありませんや。それより、大したことがないようで何よりでしたな」 「まあおあがんなさいよ」  田所がすすめた。 「じゃ、お邪魔しますよ」  老人はあがり込む。 「どうぞ、お茶を」  淳子はやることにソツがない。どうやら躾《しつけ》の厳しい家に育ったらしい。 「おや、あなたは貞さんの」 「今日は定休日だものですから、お手伝いをしてますの」 「それはそれは。でも何だね、田所さん。こうやっているとまるでご夫婦だ。いや、ひやかしてるんじゃない。ほんとにお似合だよ」 「やだな源田さん。そんなこと言っちゃ貞さんに悪いや」 「ほう」  老人は食卓をのぞき込む。 「宇宙にも豆腐だの納豆だのがあるんですか」 「いいえ、ありません」 「でも、おいしそうに食べてなさる」 「淳子さんのお料理が上手だから」  淳子は赤くなる。 「豆腐や納豆はないけど、お世辞はあると見える」  老人は笑った。 「事故のあった宇宙船には、八人も乗っていたんだってさ」  田所が教える。 「それで、お仲間は」 「それが、まだ何も……」 「それは心配なことだ。で、みなさん緑色……」 「ええ」 「じゃあすぐ見つかりますよ。目立ちますからな。だが、そうすると、当座すぐにどうこうと言う目あてはないのですな」 「ええ」 「困りましたなあ」 「当分ここにいたらいい」  田所はすすめた。或る期待があった。そしてその期待はすぐ実現した。 「あたしもそうなさるほうがいいと思うわ。よかったら、毎日でも手伝いに来ます」 「そんな……悪いですよ」  宇宙人が遠慮する。 「そうしろって。遠慮することはない」  田所は真剣に言う。 「ほかに行き場があるわけないし」 「それはそうですが……」 「な、ここにいろ。俺たちが探してやる。なに、緑色なんだから、すぐみつかるよ」 「どうもかさねがさねご心配をおかけして申しわけありません。なんとお礼を言ったらいいのか……」  宇宙人はしんみりする。食事がおわったその宇宙人の前へ、熱いお茶が出る。  そこへ貞さんが顔を出した。少々不機嫌な様子であった。 「あら、どうしたの」 「どうもこうもないさ。早びけだよ」 「なぜ」 「いえね、遅刻したのさ。課長は物判りのいい男で俺は好きなんだけど、今日ばっかりは参っちゃった。お前、熱があるから帰って寝てろって言いやがるのさ」 「熱なんかないだろ」 「ないさ。遅刻の言いわけをしただけなんだよ」 「何だって」 「ゆうべ空飛ぶ円盤がおっこって来て、乗ってた宇宙人を助けてとなりの部屋へ寝かしたり、夜中までやってたもんだからって……」 「その通りじゃないか」 「そうしたら課長の奴、俺の顔をジーッと見て、熱がありそうだから帰って寝てろって言いやがんのさ。癪《しやく》にさわったから帰って来ちゃった」 「嫌《や》な課長だね」  田所は本気で腹を立てている。せめて夕方まで貞さんに帰ってもらいたくはなかったのだ。 「まあ、しかし仕様がないね。この人を見なければ誰だってそう言うかも知れない」  源田老人はクスクスと笑った。  いくらなんでも緑色の宇宙人が世間の噂《うわさ》にならないわけはない。二、三日すると週刊誌や新聞の記者が押しかける、テレビ局は大きな電源車を近くに停めてアパートにカメラを持ち込む……いやもう大変な騒ぎ。それでも大新聞のひとつは空飛ぶ円盤など信じないで、にせ者扱いをする。アパートの住人たちは自分の隣人を悪く言われて猛烈な憤《おこ》りよう。そうなると当人もマスコミから逃げてばかりもいられず、堂々と9チャンネルのスタジオへ乗り込んで、モーニング・ショーのゲスト出演。テレビや週刊誌などというのは、ひとつ出るとあとは絶対ことわれない仕組で、次から次へ出るわ出るわ、またたく間にマスコミの大スター、時の人と言った具合になってしまった。 「あしたは十時から7チャンネルで料理番組のゲスト。十二時から日比谷《ひびや》のラジオ局でディスクジョッキーのゲスト。三時から週刊誌の対談で、六時までに六本木《ろつぽんぎ》のスタジオへ入って撮影。そのあとが少しあいていて、最後が十一時からのテレビ。……とてもこれじゃ俺の手には負えないな。あしたはギブスも外れるし、そうなれば会社へ行かなきゃならないもの」  田所はスケジュール表を眺めて唸《うな》った。 「マネージャーって柄じゃないけど、役者さんなんかにいる、あの付き人って言うのかな……あれをわたしがやってはいけないかね」  源田老人が遠慮がちに言う。 「適任よ、源田さんなら」  淳子が賛成した。もうだいぶ夜も更けていて、貞さんのところへは別の彼女が来ている。だから貞さんは出て来ない。淳子はいつの間にか、独自に田所の部屋へ出入りしはじめていた。 「そう長いことではありませんから……」  宇宙人は優《やさ》しい微笑で老人を見た。 「マスコミに出ていれば、仲間がわたしのことを見つけやすいのです。それだけなんです。仲間が見つかればやめますよ」 「それまででいいんです。断わっておきますが、報酬など要りませんよ。お上《かみ》のご厄介になっている身ですからね。ただ、わたしは宙さんの役に立ちたいんです。わたしもね、大陸から引きあげて来たとき……古い話ですが、一人きりで着のみ着のまま帰って来て、身寄りの者を夢中で探したもんです。みんな東京の下町でしたからね。戦災にあって、どうなったのか……。それっ切りです。ええ、それっ切りなんですよ。だから、今の宙さんの気持はよく判る。ねえ宙さん。わたし、あんたのお手伝いをすることで、ちっとは生甲斐が持てるんです。いいでしょう、やらせてくださいよ」  無遠慮な靴音が廊下に響いて、唯夫と昌子が部屋へ戻った様子であった。もうそんな時間になっていた。 「それは、源田さんがついて歩いてくだされば、言うことはありません」  宇宙人は頷いた。 「よし、これで何とかあしたからは安心だ」  田所は淳子と顔を見合せて笑った。 「何よ、助平……」突然となりで昌子の大声がした。 「きたならしい。出てって」 「うるせえ、ばか」  パシンと平手打ちの音。 「いけねえ、はじめやがったな」  田所は腰を浮かした。 「夫婦|喧嘩《げんか》かね」  源田老人は反射的に部屋のまん中にぶらさがっている電灯を見あげた。揺れてはいない。 「どうしたんでしょう」  宇宙人が心配そうに言う。 「好い人たちなのに」 「彼氏が浮気したみたいなんですよ」  田所が言う。 「やれやれ……うまく行かんもんだ」  老人はため息をつく。ガラガラ、ガチャンと物の割れる音。 「ばか……さわるな……いやだってば」  またガチャン。 「とめなくていいんですか」  宇宙人が言う。 「夫婦喧嘩は犬も食わないと言いますが」  老人も気にしている。 「殺せ……殺してみい、化けて出るさかい」  昌子が呶鳴《どな》っている。 「畜生、この阿魔《あま》」  ドスン、と投げられた音。今度は電灯の笠が揺れた。 「行きましょう。喧嘩はよくありません」 「そうですな。宙さんとこの年寄りが行けばなんとかなるでしょう。あんたたちはそこにいてください。若い人はこういう時は顔を出さんほうがいい」  宇宙人と老人は立ちあがり、廊下へ出て行った。 「しょうがない連中だ」  ドスン、バタンと言う音を聞きながら田所がつぶやいた。  が、ふと見ると淳子が涙ぐんでいる。 「どうしたの」  思わず肩に手がかかる。 「羨《うらや》ましい」 「え……」 「羨ましいの」 「どうして」 「あたしもあんな風に、思いっきり喧嘩したかった」  シクシクと泣く淳子の肩に手を置いたまま、田所は貞さんのほうの壁を見た。 「判るよ、その気持」 「知らなかったのよ。あたし一人だと思って……」 「貞さんはやるからなあ」  田所はため息をついた。 「清算しなければいけないわね」  淳子はそう言うと、いっそう泣きじゃくり、田所の胸に顔をあてた。 「うん、そうしたほうがいいかも知れないな」  昌子と唯夫の騒ぎは静まっている。二人の説得がきいたのだろう。  当局が動きだした。  だいたい、当局などというものが動くとろくなことはない。なんだかだと、不自然な理屈をつけて物事をややこしくさせるばかりだ。今度もそれで、宇宙人はまず出入国の問題でとがめられることになった。それに、八百屋の裏に置いてあった小型円盤が押収され、原子力なんとかと言う法律にも引っかかった。当然新聞が連日それを書きたてる。  すると、理屈好きの学者や文化人が大勢宇宙人の味方についてくれた。宇宙人は外国人かどうかという問題が彼らの第一の足がかりである。外国人ならばどの外国なのか明示せよと言うのだ。宙さんは外国人ではなく、外星人なのだ。SF式に言うと異星人《エイリアン》だ。  だが、外国人というのは、日本人以外のことを言うとする解釈が出て来た。当局側につく勘のいい学者もたくさんいるのだ。そうなると、異星人でも外国人として扱える。  円盤の高度に発達した超小型核融合装置の技術は、何も当局ばかりが欲しがったわけではなくて、外国も欲しがっている。当局は外国の圧力もあって宙さんの身柄を押えたいらしい。  放って置けば宙さんはどこかへ収容されることになりそうだった。 「なあ宙さん」  田所は宇宙人を拝み倒した。 「なんとかもう少し頑張ってもらえないだろうか」 「そりゃ、わたしだってここにいつまでもいたいんです。あなたも貞さんも源田さんも、それに田口のおばさんたちアパートの人はみんないい人ですからね」 「だったらたのむよ」 「でも、わたしら宇宙人は、その星の法律は破りたくないんです」 「そうだろうけど、あともう少し……」 「どうしてなんです」  田所はベソをかいた。 「宙さんがいなくなると、淳ちゃんがここへ来れなくなるんだ。淳ちゃんは貞さんの彼女だからね」 「でも、この国は一夫一婦制でしょう」 「それはそうさ」 「貞さんは三人も女性を持っている。いけないのでしょう」 「女房じゃないもの。貞さんはあれでまだ独身なんだ」 「淳子さんが好きなのですね」 「そうなんだよ。それで悩んでるんだ。俺、淳ちゃんと結婚したい」 「貞さんに言いなさい。かんたんじゃありませんか」 「あんたは宇宙人だからそう気楽に言うけど、人間なんてそんなかんたんなものじゃない。でも、もう少しここにいてくれれば、きっとなんとかなるんだ。ね、だから……」 「なぜ貞さんに言わないんです」 「言えないよ、そんなこと」 「でも、わたしは知っていますよ。淳子さんは貞さんとのことを悲しんでいます。あちらに別な女性が来ている時の淳子さんの顔……おとなりが最初に夫婦喧嘩をした晩、わたしはあなたの胸で泣いている淳子さんを見てしまったのですよ。この部屋へ戻ろうとして、何気なく見てしまったのです。もう問題はあなたがたの勇気だけですね」 「参ったなあ。その勇気がねえ……」 「しょうがない人ですね」  宙さんは笑った。 「では、わたしが言ってあげましょう」 「ほんと……」 「お世話になったお礼です。でも、うまく行くかどうか判りませんよ。昌子さんと唯夫さんは、結局別れてこのアパートを出て行ってしまいましたからね」 「大丈夫だよ、宙さんなら。まかせる。お願い……」  田所は両手を合わせた。怪我はもうすっかりよくなっていた。 「わたしはあなたがたの政府の希望どおりにしたいのです。だから、この問題を早く解決しないと、ここから出て行けませんからね」  宙さんは立ちあがった。 「うまくやってよ」 「ええ。最善を尽して見ます」  宙さんは出て行った。となりのドアがあく音が聞えた。  その頃、日本各地に七隻の小型円盤が不時着していた。どれも遭難した宇宙船から脱出して、宙さんと大差ない軌道で大気圏に突入したのだが、途中でちょっとした遅速が生じたのだ。それは宇宙人たちにとっては数瞬の差だったらしいが、地球上の時間にすると、二ヵ月余りも経過してしまっていた。  貞さんが宙さんについて田所の部屋へやって来た。貞さんはウイスキーをひと瓶《びん》持っていた。 「よう。おめでとう。とにかく乾杯しようじゃないか」  貞さんは大照れに照れていて、むやみと早く飲みたがった。 「ほら、早く握手をしなさい」  宙さんは二人の手をとって握り合わさせた。 「ありがとう、貞さん。ありがとう、宙さん」  田所は泣き声で言った。 「何言ってるんだ。礼なんか言われる憶えはないよ。君と淳子は恋をしたんだ。俺のせいじゃない」  貞さんは先にウイスキーを呷《あお》った。 「俺はそれほどうぬ惚れちゃいないからね。運ちゃんに譲ったなんて思わないでくれよ。でもな、俺は運ちゃんが羨ましいぜ」 「どうして」 「そういう恋愛、俺もしてえんだ。でもさ、俺ってこんな奴だろ。女は何人作っても、そういうのって、できないんだ。まったくだめな性分さ」  そのとき、ルルルル……と軽快な音が重なり合って聞えた。 「あれ、何の音だろう」  貞さんが窓のほうを見た。 「あ……」  宙さんはとびあがり、大急ぎで窓をあけた。夜空に円盤が、ひとつ、ふたつ、みっつ……合計七つ。  不時着した小型円盤は、日本中に知れ渡っていた宙さんのことを聞いて、このアパートへ集って来たのだ。 「仲間が来た。みんな元気だ」 「そうか、よかったなあ」  二人も窓に駆け寄り、円盤を眺めて宙さんの背中を叩いた。  アパートの前の道に七隻の円盤がきちんと降下し、一人、また一人と鉄の階段を登って来る。アパート中が総出でそれに拍手を送った。 「豆腐屋に断わって、となりの部屋を今晩だけ使わしてもらおう。八人も入れる場所はほかにないものな」  貞さんが言ったので、源田老人が家主である豆腐屋へ走って行く。 「それに、おい。何をボヤボヤしてるんだよ。早く行って淳子を連れて来い」 「いいのか」 「いいさ。もう綺麗《きれい》さっぱりだ」 「よし」  田所も駆け出す。そのとなりの昌子と唯夫がいた空部屋のドアをあけて、八人の緑色をした宇宙人たちが、ぞろぞろと中へ入った。 「酒だ、酒屋を起して酒を買って来い。豆腐屋で豆腐の残りをもらって来いよ。皿に箸にコップに醤油《しようゆ》……そうだ、田口のおばさん、薬味のねぎをきざんで……」  アパート中が宙さんのパーティーの仕度に大騒ぎをはじめる。 「いいか。仕度がすんだら放っといてやれよ。久しぶりなんだからな。宙さんのめでたいパーティーなんだからさ」 「判ってるよ。そんな気のきかないあたしたちだと思ってるの」  田口のおばさんたちはそう言って胸を張った。  となりの部屋の宇宙人たちの騒ぎを聞きながら、田所と淳子は熱い口づけをかわしていた。 「結婚してくれるね」  淳子は返事のかわりに田所の首に両腕をまきつけ、もういちど深いキスをした。田所はそのキスのあと、高鳴る胸を鎮《しず》めようと、大きく息を吸った。 「どうでもいいけどよく騒ぐね、宇宙人も」 「ほんと、もう四時になるわ」  何やら笛を鳴らすような宇宙人たちの声が入り混って、アパート中の者が睡れないでいた。 「あの人たち、ほんとにお酒飲んで酔っ払ってるのかしら」 「のぞいて見ようか」  二人は顔を見合せて頷くと、電灯を消し、そっと窓をあけて敷居の上へあがった。そうやると、なんとかとなりの部屋の中が見えるのだ。 「あらっ」  淳子がひと目のぞくなり敷居からとびおりた。田所は生唾を呑み込んでみつめている。 「およしなさいよ」  淳子がそれを引き戻す。戻されて畳の上へおり、よろよろっとよろけた田所は、そのまま淳子の体を抱いて倒れた。キスとまさぐり合い。二人は結ばれて行く。 「宙さんたちって、一人の男に七人の奥さんがいるのね」  淳子はうわごとのように言った。笛のような声は、男女の歓喜をあらわす声なのだろう。階下で源田老人が、じっと電灯の笠をみつめている。  まったく、その晩はとなりの宇宙人がやかましくて、寝られたものではなかった。彼らが別な宇宙船に救出されるまで、毎晩この騒ぎが続くのだろうか。  本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品の文学性などを考慮しそのままとしました。 [#地付き](角川書店編集部) 角川文庫『となりの宇宙人』昭和53年6月10日初版発行              昭和57年5月30日10版発行